2005年11月25日金曜日

"Outside It's America:

Composers John Corigliano and Steve Reich Trace the Nation's Musical Landscape," Classical Pulse! 18 (October/November 1996): 10-13, and 34.

アメリカのタワーレコードが発行していたフリーペーパー。タラハシー時代にわざわざ送ってもらっていたようで、この記事だけを破って保存していた。今考えても、何とも奇妙な組み合わせの対談だと思う。一方は「アカデミズム派継承」でもう一方はそれとは全く違う流れ、のように見える…。

でも二人とも大学時代には「無調で書くことがクラシック作曲家の道」と考えられていて、そのことに強い疑問を持っていたという点で意気投合していた。またアメリカがヨーロッパの追従ばかりしていることへの不満なども述べられている。

他には…

「レナード・バーンスタインはジョージ・ガーシュインだけでなくポール・マッカートニーやジョン・レノンのように書けるように右腕を貸したんだと思う。だってマッカートニーとレノンは--彼らのジャンルでは--完全な頂点だったから。《イエスタデイ》なんてのは不滅の旋律だ。僕にはそんな才能なんかないし、バーンスタインもそんな才能など持ってなかったと思う。」(スティーヴ・ライヒ)(p. 13 and 34)

ありふれたコメントかもしれないけど…。

別の資料を見ると、コリリアーノの師匠がオットー・ルーニング、ポール・クレストン、ヴィンセント・ジャンニーニだったとは…。コロンビア大学恐るべし。でも彼のインタビューでルーニング以外の人の話は出てこないなあ (^_^;

2005年11月24日木曜日

サイト更新

アメリカのクラシック音楽ハンソンの音楽に追加。カンゼル/シンシナティ・ポップス管のCDのコメントについては「一回ちらっと聴いて、ポジティブな側面だけ思い付くまま書きました」という内容です。時間ができたら、変更・更新する可能性があります。

(2005-10-27 21:05:32) 音・音楽関連のリンクの「スーパー源氏」のURLを新しいものに変えました。

(2005-10-15 16:55:03) MIDIのページのオリジナル曲(恥かき専用 (^_^;;)、《夜》、《希望》、《旅》、《風とぼく》、《回想》、《バッハ風即興演奏》、《モーツァルト・ぱくり》、《電子音楽もどき》、《無題》のMP3ファイルをアップロードしました。

(2005-09-20 17:00:45) MIDIのページのオリジナル曲(恥かき専用 (^_^;;)、《つかの間》 Op. 15のMP3ファイルをアップロードしました。低音過多になっているのは当時持っていたキーボードの音声出力によるものです。ご了承下さい。

(2005-09-13 21:31:26) アメリカのクラシック音楽ライヒの音楽に1枚追加 (09-21. 誤字訂正しました)。グローフェのグランド・キャニオン組曲のページもレイアウトを変えました。グローフェの伝記などの情報も足していくつもりです。

Essential Cowell:

Selected Writings on Music by Henry Cowell 1921-1964. Edited by Dick Higgins. Kingston, NY: McPherson, 2001.

ヘンリー・カウエルが様々な出版物に書いた文章を集めた本。実験音楽の作曲家、諸民族の音楽、新しい音楽理論などに分類されている。彼の著作というのは案外多くて、ここに収められていないものも多数あるに違いない。こういう本がでるとは思わなかったので、私も留学時には、沢山図書館にある資料を複写したものである。手元にある資料との照合はしていないので、どのくらいまで手元にあるのが唯一のものかは分からない。

ところでこの本の編集をしたディック・ヒギンズという人はフルクサスのアーチストして有名で、確か芸術における退屈の問題について書いていたのではないかと思う。私もどこかに彼の著作を複写したものを持っていたように思う。

そして、なぜか彼の製作していたディスコグラフィーに若干協力したことがあって、この本に掲載されているディスコグラフィーにも私の名前が言及されている(323ページ、今朝気が付いた)。確かどこかのメーリングリストで彼のディスコグラフィーを見たんだと思うけれど、丁度手元にあったCarol Ojaのディスコグラフィーと比較して抜けているものがたくさんあったので、それを指摘したのだった。

彼からは、日本国内で発売されたもので、漏れているものがないかという返事が来たのだったが、一時帰国した時にチェックしただけでは分からなかっスのが残念であった。

カウエルの資料に関しては、確か2001年までシドニー・カウエルが公開を許可するまで、なかなかアクセスが難しかったように思う。でもその後状況が変わり、カウエルの伝記がようやく刊行されたのだった。それでも私は楽譜に関しては許可をもらってマイクロフィルムにて楽譜を入手したことがある。CBSから委嘱された短い作品だった。

ところで先日『音楽文化の創造』にレビュー2本を送った。今回は霊歌からゴスペルに至る黒人のキリスト教音楽を概観するスミソニアン/フォークウェイズ・レーベルの "Wade in the Water" というCDと、柳生すみまろ氏の『映画音楽:その歴史と作曲家』について書いた。後者はすでに絶版だけれども、柳生氏の本はアンダースコアまでを扱った丁寧な本で、映画音楽について勉強するのなら、まずこの本がいいと私は思っている。アメリカでは、映画の音楽を書くということが、かなり実践的に勉強できる学校があるので、教科書はいくつかある。具体的にどういった仕事の依頼があって、どのくらいの期間でどういったことをするのかが、具体的に述べられており、スコアの実例も数多く引いてある。今はDTMの知識も必須だそうで、映画監督などに、どういう音楽を作っているか、デモテープなどを作成することも普通に行われているようだ。

2005年11月9日水曜日

雑感

机の引き出しから小切手が出てきた。アメリカのPro Quest社からで、私の博士論文に対する報酬らしい。雀の涙のような金額ではあるが、ゼロックス版とその他のフォーマットで7部売れたらしい。あまりない研究分野だから、それなりに需要があるということか…。これ、換金できるんだろうか???

先日金沢で発表したディズニー映画音楽(白黒ミッキー時代)に関するレジュメ(PDFファイル)をこちらにアップさせていただいた(文献表の一部に恥ずかしいミスあり。例えばAmtoqie→Antique。そうとう眠かったのかな〜これ打ってた時???)。参考にされたい。もともとは『シリー・シンフォニー』のシリーズも発表にいれようとしていたが、時間の都合でカットしたため、文献表・フィルモグラフィーに『シリー・シンフォニー』関連のものが入っている。なお配布資料をご希望の方は、メールにて連絡されたし。

最近購入したCD:宇野誠一郎作品集I(ウルトラ・ヴァイヴ CDSOL-1094)
『一休さん』のイントロのファンファーレ、コードの選び方でユーモラスなオープニングになっている。『山ねずみ ロッキーチャック』のOP《緑の陽だまり》は、幼い頃、好んで聴いていたのも思い出した。ライナーノートのインタビューが面白い。

できればアンダースコアなんかも聴いてみたいものだ(レンタルビデオ屋に行けばいいことか…)。

American Record Guideが届く。カンゼルのハンソン/第2交響曲に高い評価。Amazonには注文を入れてあるので、届くのが楽しみ。

2005年7月22日金曜日

アジカンのCDなど

崩壊アンプリファー KI/OON Records KSCL 542

アニソン・タイアップ商法(?)に自ら引っかかってみる。ここ1週間くらいは、車の運転をしながら、何度も聴いた。聴くほど味が出てくるようだし、収録曲は、どれも面白いと思う。トップに来ている《遥か彼方》がやっぱり良いと思うけれど。
遅ればせながら、その《遙か彼方》のイントロはバイクのエンジン音だと気づく(頭のべース、派手なフィルインの後00:18〜00:21周辺のギター)。なかなかリアルだ(「アクセル」という歌詞があるのだから、早く気付けよ!)。Intro-AABC-Interlude (Bridge?)-AABC-Codaで、Aの最初の部分はギター2本のうち1パートがロングトーン、もう1パートが刻みと、他の曲よりもギター2本の違いがはっきりしている。

しかしドラムの人はうまいなあ。聴いている私も自然にバックビートでステップを踏むようになる。

この曲はキーがFなので、ヴォーカルのギリギリのBbが実に効果的。反対に《サンデイ》の場合はCmからスタートしてEbへとシフトするため、Bbの限界が明かにされてしまう。でもなぜか喉声で高音域に挑戦するところに魅力を感じる。

私がアメリカにいた時に乗っていた車にはCDプレーヤーがなく、音楽を聴く手段はラジオだけだった。クラシック愛好家としてクラシックの局を一番よく聴いていたのだけれど、あまり面白くない時はカレッジ・ステーションに合わせていた。メインストリームフトップ・ヒット・チャートには乗ってないだろうけれど、学生DJがそれぞれの耳で選んでかけるプログラムはとても面白かった。曲やアルバムやアーチストのアナウンスがひどく適当で、数曲続けて演奏されることもあったのが残念だったが、「面白いな〜これ」と思われる曲が、いい割合でかかっていた。クラシックは全くなかったのだけれど、別にそれは全く構わない。

アジカンの「1st Mini Album」を聴きながら、いい意味で、アメリカのカレッジ・ステーションでかかりそうな面白い音楽を発見したような気になった。こういうのを「ガレージ・バンド」と呼んじゃうと失礼になるんだろうか?

ソルファ KSCL 737

こちらは富山市立図書館所蔵。録音がずいぶん違ってて、ギターとドラムスがきっちりセパレートされている。好みとしては『崩壊…』のミックスにサウンドの一体感があるし、音も、もっと前に迫ってくるように思う。ヴォーカルはファルセットも積極的に使っている。おそらく歌手生命を延ばすには、こういったリラックスした唱法の方が安全なのだろうな。そのファルセットを表現にしようとしているのも分かる。一方で《リライト》のサビに聴くような声の張りがもっと欲しいように思えてしまう。

曲のバラエティに関しては『崩壊…』よりはずっと多彩だし、エフェクターもいろいろ使っているんだろうし、声のリアルタイム・フィードバックなんかも聞こえるけれど、好みとしては、多少モノトーンでも『崩壊…』の方を何度も聴きたいと思ってしまうのだから、不思議なものだ。「エモーショナル」だからかなあ。

2005年6月22日水曜日

A Festival of Russian Music

フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団 米RCA Victrola VICS-1068 (LP)

チャイコフスキーやグリンカといった国民楽派の音楽では、私など、ついロシア民謡風の(あるいはロシア民謡そのものの)旋律にばかりに耳が行ってしまいがちだ。しかしこのライナー指揮の見通しの良い演奏では、旋律以外に同時進行する様々な要素を聞くことになり、結果として曲が実に立体的に感じられる。「本場」ロシアの指揮者・オーケストラ、あるいはその録音にしばしば聴かれるどろどろとした感じ、渾然一体となって迫ってくる「戦車」といったステレオタイプに泥酔するのであれば、この録音はたぶん失格なのだろう。しかし極めて落ち着いて楽譜に流れる線を丁寧に紡ぎ出す演奏という印象を持った。特に《スラブ行進曲》に感心した。楽曲分析をするのにはいいのかもしれない。

Marche slave, by Tchaikovsky.--A night on Bare Mountain, by Moussorgsky.--Russlan and Ludmilla: Overture, by Glinka.--Marche miniature, from Suite no. l in D minor, op. 43, by Tchaikovsky.--Prince Igor: Polovtsian march, by Borodin.--Colas Breugnon, op. 21: Overture, by Kabalevsky.

2005年6月13日月曜日

A Portrait of George Szell

The Cleveland Orchestra: One Man's Triumph (a production of Henry Jaffe Enterprises for the Bell system). Kultur(VHSビデオテープ)

1966年に『ベル・テレフォン・アワー』にて放送されたジョージ・セルのドキュメンタリー番組。ブラームスの《大学祝典序曲》のリハーサル風景では、セルが聴きたい箇所を絞って選び、演奏する。楽団員への指示にしても、歌って聞かせるのではなく言葉を使って説明調に進める。吉田秀和氏が『世界の指揮者』で書いていたのと同じような情景だ。そしてラフェエル・ドルーリアンとセルによるアルバン・ベルクの練習風景が続く。セルはもともとピアニストとしてキャリアを始めたと知っていても、ベルクのヴァイオリン協奏曲の伴奏パートを自ら弾いてリハーサルを行うというのは大した才能である。

次にルイス・レーンとセルの対話。今度レーンがメンデルスゾーンの第1交響曲を録音するということでセルに相談だという。彼はメンデルスゾーンの作曲プロセスに触れ、3楽章に2つのバージョンがあり、録音ではメヌエットとスケルツォのどっちを選んで演奏すべきかをセルに尋ねる。セルはルイス・レーンという名前がレコードのラベルに載るのだから、最終的決断は自分で行うべきだと言い、それぞれの特色について簡単に述べるだけにとどめていた(他楽章との調関係など)。しかし楽譜の選択について考える時、単に楽譜だけでなくて、作曲家の伝記的な状況も考えるというのは、音楽学者ならともかく演奏家もやるのだということに改めて気が付いた。

続いてジェームズ・レヴァイン(若いっ!)、スティーヴン・フォーマン、マイケル・チェリーの3人の指揮レッスンの様子。まずは一人一人ではなく、3人に語りかける。スコア・リーディングやスコア・プレイングの話。コダーイによるシステムだそうだが、まずバッハのインヴェンション、次にコラール、そして弦楽四重奏にトライせよという指示をしている。作品を知るために、こういう学習は不可欠だという。この後レヴァインから、ピアノ相手の指揮レッスンが始まる。

《ドン・ファン》の冒頭
・アウフタクトはできるだけ小さく振る
・音楽家は曲を実際に演奏し始める前に、心の中で音楽を感じていなければいけない。

ベートーヴェン5番の冒頭
・フェルマータの切り方が大切。次のモーションとの関係でどうやって切るかを考える。

最後はベートーヴェンの第5交響曲のリハと本番。アナウンスが「封建主義」は「独裁政治」ではないというコメント。セルに対してはしかし後者のように感ずる人も少なくなかったと聞くが、実際はどうだったのだろう。リハ風景を見る限り、彼は団員を叱りつける訳ではない。しかし、ずっと一人で振りっぱなし、話しっぱなしという印象を覚えた。まあそのこと自体はセルだけということではないし、おそらく彼のリハのやり方、話す内容(楽譜をコピーして覚えているような、知的な印象)、ニュアンスといった、別の要素が彼の印象につながっているのだろう。

2005年6月5日日曜日

ベートーヴェン、弦楽四重奏全曲シリーズ、第5回終了

6月2日、田尻酒店で行われた演奏会が無事終了。今日の『北日本新聞』の「天地人」にも紹介されている。

約150人の聴衆で埋め尽くされた会場では、場所によって多少響きが違うけれども、「室内楽」という趣旨にぴったりの、非常に間近な音体験がなされたと思う。そしてこのシリーズは聴衆・演奏家・裏方の三者がそれぞれ支え合う、充実の企画ではないだろうか(自分も企画に携わっているから、客観的に言えることではないけれど)。今回このことを改めて実感することになった。

ベートーヴェン、とりわけ弦楽四重奏が難しいと考えられてきたのにはどういう要因があるのだろう。おそらく音楽そのものに接した方々は、それほど「難解」とは思ってないのではないかと思う時がある。確かに楽譜を見て形式を言い当てることは難しい。どうしてこんな作品がかけるのか分からないと感じることも多い。

しかし一方で、響きそのものはベートーヴェンの時代のクラシックだし聞き慣れないということはないように思う。私の母親も来ていたが「ベートーヴェンの難しさ」には気付いていないようだった。形式的には混乱しているけれど、響きそのものに拒絶感を感ずる事は少ないのではないか? 不協和音を継続的に聞く20世紀音楽の無調作品とは違うのではないか? 前回の《大フーガ》に感銘したという趣旨の感想もプログラム冊子に寄せられていたではないか。

やはり実際に聴いてみるということが大切なのだろうと思う(もちろん、それは20世紀音楽についても同様である)。

Spiritual Traditions in the United States

WFSU-FM (NPR International) 1997年2月23日エアチェック

ラジオのスイッチを入れたら突然面白い番組をやっていたので、いそいでカセットを用意して録音した番組。私の聴いた部分は、白人・黒人霊歌の伝統という大げさな歴史ではなく、もっと最近のコンサートで上演されることを前提としたモダンな合唱曲として編曲された霊歌が大半だった。LPレコード(しかも状態は必ずしも良くない)も使っているので、かなりザラザラした雑音も生々しく放送されている(日本でこんなレコードをかけたら苦情がくるのではないだろうか)。エアチェック・テープはジェスター・ハリストン、ナタニエル・デット、ウィリアム・レヴィ・ドーソン(のアレンジ)などから始まった。このうちドーソンは「古典」であり、これからも演奏されるだろうというコメントがある(どうやらこのコメントをしているのは、フロリダ州立大学のアンドレ・トーマスのようだ)。

この後に紹介されたタスキギ・インスティトゥート・コワイヤ(ドーソン指揮)の霊歌をボーっと聴いていたのであるが、このレヴィ・ドーソンのアレンジがだんだんとフォスター歌曲のアレンジに聴こえてきた。なぜだろう。もしかするとフォスターの歌曲と黒人霊歌の スタイルはかなり近いのか???

番組はこの後ロバート・ショウ合唱団へ。たくさんレコードがリリースされ、全米の合唱指揮者が購入し、レコードの演奏をモデルとしたため、かなり影響力があったそうだ。確かにレコード店には黒人霊歌以外にもたくさんのCDが並んでいた。ショウ合唱団のための編曲を多く手掛けたアリス・パーカーも電話で登場。

もっと新しい編曲(いずれも黒人による)ではブラジール・デナード、モーゼス・ホーガン、そして番組にも出演しているアンドレ・トーマス自身のものも紹介されていた。どれもヒネリが効いていて素晴らしい。私もトーマス編曲の“Keep Your Lamps”を、当時通っていたルター派の教会で、聖歌隊のテナーとして歌ったことがある。ラジオでかかっていたSt. Olaf合唱団のようにはとてもいかないけれど (^_^;; 歌いながらゾクゾクするような、歌うこと自体が感動体験という感じの編曲だった。

他にはラリー・フェラル、ドルフェス・ヘールストークという人の編曲も紹介されていた(これらも電話でのインタビュー付き)。

Show Boat Tunes 1840-1900. 米Desto DST-6423 (LP)

ブラック・フェイス、ミンストレル・ショーという言葉がライナーに踊っているが、演奏者も作曲者も書いていないので、極めて不親切。もちろんいつ録音したかも分からない。モノラル録音。ミンストレル・ショーは、時代考証をした録音が他にあるのだけれど、"Show Boat Tunes" というタイトルにすっかり騙されたようだ。伴奏は多少南米入ってません(マリアッチ風の楽器法)? まあリスナーが聞き流すということならば、問題ないということなのだろう。ちなみに収録曲はStop that Knocking at the Door, Way Down in My Heart I've Got a Feeling for You, Somebody's Grandpa, Soft Shoe Dance, History ob de World, Nelly Bly, Angel Gabriel。裏面(A面)はBurrill PhilipsのSelections from "McGuffey's Readers"である。

2005年5月31日火曜日

ハイドン&アイヴズ

ハイドン 交響曲全集 第4集 クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団 ポリドール(Editions de L'Oiseau-Lyre)POCL-1093/5

古典派といえばハイドンとモーツァルト。モーツァルトのファンにはモーツァルトさえ聴ければいいという人もいるらしい。ハイドンにはそういうファンはいるのだろうか。

ハイドンというと、そつなくたくさんの曲を書いたというイメージがあるのかもしれない。だいたい交響曲だけでも104曲(+α)あるのだから。でもこのエステルハージの副楽長時代までの作品は実に創意溢れる楽しいものばかりだ。昔(全音の)ソナタ・アルバムなどでハイドンの名には親しんでいたが、作品としては、やはり交響曲や弦楽四重奏の方が面白いように思う。

しかしホグウッドのハイドン全集、入手していないのも大半なので、ぜひ再発売してほしい。ブルーノ・ヴァイル/ターフェルムジークの「疾風怒濤」期の交響曲もいいなあ(仏Sony Classical 5112142)。実験精神旺盛なんですよ、ハイドンは。

アイヴズは交響曲第3番をいくつか。案外オルフェウス室内管弦楽団が面白かった。コープランドの《アパラチアの春》の方は、やはりちょっと響きが厚めだったからなあ。あと、新しいシングルトン版の楽譜には「shadow」といって、前の版では書かれていなかった部分が自筆譜から起こされている。そしてラッセル・デイヴィス、シンクレア、オルフェウスのCDではこれが(いくつかだけだが)聴こえてくるから面白い。バーンスタインの時は古い楽譜だったのだろうか(演奏がちょっと怪しい箇所もいくつか)。

2005年5月26日木曜日

2冊の雑感

朝日新聞社会部編 『言論の不自由:朝日新聞「みる・きく・はなす」はいま--十年の記録』 怪書房、1998年。

日本には法律で規定されていないのに、それ以上に人を縛り付けるような「social pressure」が多い。私の友人も、常々このことを指摘していた。いわゆる「出る杭」の他にも少数意見(少数派)の強固なまでの排除もある。そういった行為が総じて全体主義につながりやすいというのは全くもってその通りではないかと思う。

もともと新聞の連載だったためか、事象の掘り下げにはやや物足りないところもあるが、反対に多くの事例から全体を通貫する問題が感じられるように思った。日常レベルで、無意識的になされていることを考えることになると思う。

土井健司 『キリスト教を問いなおす』 ちくま新書、2003年。

「平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか」という刺激的なタイトルが第1章。昨今のブッシュ政権とキリスト教会との強い結びつきを考えると、このような問いが信徒に向けられるのは避けられないことだろう。だが私はブッシュのやり方は大嫌いだし、アメリカのクリスチャンにだって戦争反対の意志を表明する人はいる。

個人的にはこの問いは「キリスト教」ではなく「キリスト教徒」に置き換えて考えるべき問題だと思う(土井さんも、このことに触れられてはいるようだ)。人間の愚かさを主との対話で知るのがクリスチャンであるはずだ。私だっていつ間違うか分からない。

ところで、相変わらずハワード・ジンはいいこと言うなあ、と思う→こちら(英語)を読んでみてください。まあ「アメリカはユニークで云々」の下りは、これがアメリカの大学の卒業式で話されていることだということを差し引いて考えるべきなんでしょうけど。

(2005.5.30.追記) 久しぶりにジンについて検索。C-SPANに1月の番組をアーカイヴしたものが残っていた(Howard Zinnで検索かけました)。ブッシュの再選のことから話が始まっていて、いきなり「うん、うん」とうなずいてしまった。フセインがみつかってもなぜイラクに米軍がいるのかっていう素朴な疑問にも感心。つまり民主化にも独裁政権にも、最初から関心がなかったのだと。石油に関する利権と中東における覇権主義だと。こういうことは日本では盛んに言われているけれど、アメリカのメディアでこういう発言がでるのはすごい。アメリカが(太平洋戦争の)戦前・戦中、帝国主義勢力に対して戦ったのは確かだが、そのアメリカ自体もずっと前から帝国主義を同じように行っていたと、愛国的で熱狂的に語る電話の視聴者に冷ややかに答えていたのもすごい。番組の方もいちど視聴者の話が終わると電話の音声をすみやかに切っているからうまくいくのだろうな。「あなたみたいな人は最も非アメリカ的だ」という電話に対しては何がアメリカ的なのかについての再考を促していた。

最後は通信衛星が自動的に切られて終わってしまったけれど (^_^;; その前に視聴者が「あんたは共産主義者か?」という問いを投げかけていたのは興味深い。そうすると、今のブッシュ政権のやり方に反対する、少なからぬ日本人(+アメリカ以外の国の人)はみな共産主義者となるだろう(ちなみにジン自身は共産主義者ではないが、民主社会主義のようなものは信ずるし、平和主義者であるというような返答をしていた)。

2005年5月25日水曜日

サイト更新

音・音楽関連のリンク集に「音楽工房 blooming sound jp」を追加。DTM関係という項目を新たに設けました。
2005-05-18 17:03:05 アメリカ音楽関連のリンクの「クレストン関連」にサイトを追加。日本にはクレストン・ファンが多いようですね。
2005-05-11 22:34:40 アメリカのクラシック音楽アイヴズ:第3交響曲のコーナーを書き始めました。気が向いた時に内容を追加していきます。
2005-05-09 16:09:04 アメリカのクラシック音楽パーシケッティのページクレストンのページにディスクを追加。
2005-05-05 11:24:21 アメリカのクラシック音楽ダニエル・レンツのページにディスクを追加。

2005年5月15日日曜日

Made in the U. S. A.

なるほどねえ。こういうサイトを読んでみると、最近急激に浮上してきた「普通の国(オリジナルは「normal nation」だったのか!)」だとか「憲法改正(改悪?)」だとかはすべてはイラン・イラク戦争以降のアメリカから始まったんだなあ。ネオコンは日本を「Britain of the Far East」にしたいのかあ。

アメリカの「内政干渉」は、実はどこぞの国々の教科書問題なんかよりもずっと本質的で根深そうだ。

2005年5月6日金曜日

滑川(なめりかわ)~魚津方面

久しぶりに音楽以外のネタ。

5月4日~5日は金太郎温泉に行ってきた。実家から1時間もしないうちについてしまうので、とても快適。後でいろいろ聞いた感じだと、数年前に新しい大浴場ができて、入浴だけの一般客も多いらしい。

大型連休中、旅館はどこも料金が割高で予約もほぼいっぱい。しかしなぜか金太郎温泉のホームページを見ると、一人1万円ちょっとの格安プラン、期間限定、一日の組数も限定というのに、まだ5月4日の分は残っていた。他の通常の格安プラン(特に制限はなさそう)はすべて満室なのに。

私がいった格安プランは夕食・朝食ともに大きな部屋で食べ、泊まる部屋に料理が運ばれてこないというもの。でもそれくらいどうってことないので、安いのはうれしい。料理が特別安く作ってあるという感じもなかった。

大きな旅館で、団体旅行でも使われているので有名な旅館。正直お部屋の方は慰安旅行向けといった趣だったが、やはりお風呂は楽しかった。夕食前などは一般の入浴客もかなり来ていたそうで、大変な混雑ぶりだったらしい。私はその時宿泊客のみ使用できる別の大浴場の方へ行ったので、かなり空いていた。それにしても硫黄の匂いが強かった。大昔に来た時はこんなはずじゃなかったのに、と思ったら、最近新しく違う温泉が出てきたという噂を聞いた。

話題の風呂の方は8時半頃?に視察。昔金太郎温泉というと、だだっぴろい風呂から大きな岩の数々を眺めて楽しむという感じだったけれど(むかし泳いだ記憶がある)、現在は浴槽そのものはちょっと小さくなり、その変わりジャグジーや打たせ湯や浴槽を歩く場所とか露天風呂とか、いろいろな風呂が楽しめるようになった。特に露天風呂は快適。周りの景色はお世辞にも素晴らしいとは言えないが、それでも楽しめた。

2階にはリラックス・ルームもあって、寝そべるように座れる椅子の耳元のスピーカーからは好みのテレビ音声をスイッチで選べるようになってきた。ちょうどプロ野球の問題をNHKでやっていたのでしばらく観ていた。プロ野球も地域密着型にしないといけないなあ。巨人中心じゃ面白くないしなあ。

売店にはおわらのビデオがあったので購入。駅の売店などではみかけないローカルなものだった。

金太郎温泉に行く前、ほたるいかミュージアムにも寄ってきた。様々な展示の他に、映画(正式には「イリュージョンシアター」)とホタルイカ発光ショー(「ライブシアター」)がある。映画の方はホタルイカの光がフィルムでは出にくいということなのか、電球を映像をシンクロさせる仕組みが面白かった。ただ内容的には他愛のないもので、電球を使ったアトラクションがなければ退屈していただろう(たくさん詰めかけていた子供たちは楽しめたのだろうか?)。

一方ホタルイカの発光ショー(「ライブシアター」)というのは面白かった。部屋を真っ暗にしてホタルイカの発光を実際に見るというもの。ほたるいかミュージアムの前、昼飯を食べた海老源の水槽にもホタルイカが放たれていて、網で優しく触ると発光する様子が見られますということだったが、ホタルイカたちはぐったりしていて、光ってくれなかった。海老源はホタルイカの造りが美味しかったということで満足。この時期、滑川に来たらホタルイカを食べないとね。あら~我ながら残酷。

この日はきっと、魚津では蜃気楼が見えたのかもしれない。残念ながら私は行かなかったけれど。富山県にいても、蜃気楼というのはなかなか見られないものだ。

2005年5月2日月曜日

アンドレス・セゴビア選集(1927-1939)、第1巻

EMI-Angel CDH 7 61048-2

ギターはコードを奏するには簡便な楽器と察するが、ポリフォニックな楽曲は難しいのではないだろうか。セゴビアのバッハ演奏では、特にどの声部やフレーズを引き立てれば立体的な音楽表現になるのかが非常に良く考えられていて、そのダイナミックな表現にも共感する。一つ一つの指を使って声部を相対する強弱で際立て、弾く瞬間からすぐ消えてしまうギターのか細い音から持続する旋律線やフレーズを聴かせるのは並大抵ではないはずだ。

《アルハンブラの想い出》も極上の美しさ。そしてひっそりと隠れた美しいフレーズの数々にもスポットライトを当てている。しかしこの作品に「トレモロのエチュード」という副題が付いていたのは知らなかった。

2005年5月1日日曜日

宇宙の音楽(ムジカ)が聴こえる

こころの時代~宗教・人生 「宇宙の音楽(ムジカ)が聴こえる」 皆川達夫 NHK教育放送

昨年の音楽学会でも研究成果を披露されていた皆川達夫さんが自らの生涯を語られている番組。音楽に対する熱き想いが伝わった。

ジョセフ・カーマンの本から推測すると、彼が留学した時代というのは、おそらく今よりもずっと音楽学における記譜法の重要性は高かったと思う。現在でもその伝統は受け継がれており、20世紀アメリカ音楽を研究する私でも、中世やルネサンス音楽の記譜法は一通り勉強した(中世・ルネサンス各1セメスター)。皆川さんの時代は、まだ教科書もなかった頃だったのだろうか。しかし反対に、授業でドライにアイディアを学んだのではなく、実例から多くを学ばれたと思われるので、それはある意味うらやましいということになるかもしれない。

現在はスタンダードな記譜法の本が2冊あるので記譜法は体系的に学べるが、毎週毎週新しい課題をこなして通り過ぎていくという感じで、音楽というよりはパズル解きのような感覚になっていたことも否定できない。ただ実際に「翻訳」してみることは大事で、例えば理論だけで説明できない、音符や歌詞の書き(写し)間違い、インクのしみなどを判断するのは、現代の印刷譜以上に問題となってくる(おそらく五線譜によるマニュスクリプトにも存在する問題だろう)。

この「翻訳」作業、グレゴリオ聖歌のネウマ譜はまだそれほど難しくない。しかし定量記譜法に入ってくると大変。「今すぐやってみろ」と言われたら、どのくらいできるか、ちょっと心配でもある。記譜法というのは音楽学の授業の中でももっともハードなものの一つだった(語学のハンデが低くなるという利点はあるが、アメリカ人にとっても大変な授業なのである)。

現在は主要なマニュスクリプトはファクシミリになっているので、基本的なリサーチは大学図書館でも可能だろう。ただ学術研究の最先端に立つには、やはりオリジナルを見る必要が出てくるだろうと思う。もっとも現在もマイクロフィルムで取り寄せることは行われているし、私のいた大学の先生は、しきりにデジタル化を提案していた。家にいながらマニュスクリプトの詳細がデジタル・データとして見られるようになると、かなりこの分野の研究は楽になるだろう。

皆川さんはかつて『音楽芸術』に記譜法の歴史について連載されていたが(国立音大で複写したものがここにもいくつかある)、記譜法の歴史の本を書きたいとどこかでおっしゃっておられた。日本人の手による記譜法の歴史の本があると、確かに基礎研究の分野では大きなツールになると思う。

彼の指揮する合唱団の演奏の一端を聴いたのも初めて。私のいた大学でやっていたヴォーカル・アンサンブルはもっと近年の演奏習慣研究に則したものであったが、日本におけるパイオニア的活動であることは変わりない。

そうそう、音符の書いていない文字ばかりのマニュスクリプトで思い出したのが、カルミナ・ブラーナ。そのほとんどには楽譜が残っていないか、残っていたとしても、歌詞の上にハネ印や点が書かれている簡素なもの。結局このマニュスクリプトだけでは分からず、他の聖歌の楽譜をいくつか探すことになった。私も大学図書館で奮闘していたのを思い出す。ラテン語の基礎も勉強したなあ。懐かしい。

2005年4月29日金曜日

マダガスカル島民の歌

ラヴェル/ヘブライの歌 [歌曲集] ジェラール・スゼー(バリトン)ほか。東芝EMI(EMI Classics)TOCE-9847

例えばカバレフスキーという作曲家が《道化師》組曲で語られるとすると、彼の作風の全貌を見失うような気がする。ホルストも《惑星》というのは、彼の作品群の中では特異な存在だろう。プーランクには二面性があるというのは有名だ。

ラヴェルの場合も一般的には《ボレロ》などで知られているのかもしれないが、《マダガスカル島民の歌》の<アウア!>に出会った時は度肝を抜かれた覚えがある。タフツ大学というマサチューセッツ州の大学の修士課程の面接に行った時、ついでに授業を受けてみたらと言われ(マーク・ディヴォートという、ピストンの『和声法』の改訂をした人)、確かその時に聴いたのがこの<アウア!>だった。「これがラヴェル? 何かの間違いでは?」と思ったほどである。

もしかするとこの<アウア!>がラヴェルの中では特異な作品なのかもしれない。しかし、一人の作曲家の作風を掴むのが難しいケースも多々あるものだと、改めて思う。

2005年4月26日火曜日

サイト更新

アメリカのクラシック音楽ピストンの項目を改訂。第2交響曲のディスクを追加しました。

音楽雑記帳に4月19日に行われたベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会 第4回公演の楽曲解説を載せました。北日本新聞ホールで行われたコンサートは、おかげさまで大盛況でした。クラシックのコンサートで200人近く収容のホールが埋まるというのは、なかなかのものではないでしょうか。しかも第1回から欠かさずおいでになっておられる方も少なくなく、7月に行われる第5回公演のチケットも、すでに50人近くの申し込みがあったそうです。定員が150人ですから、今度は席を獲得するのも大変になるのかもしれません。岩瀬の田尻酒店で開催されるというのも、話題の一つとなりそうですね。

アップした解説文、ワープロ変換ミスを直しました(汗)。(2005-04-21 19:15:45)

アメリカのクラシック音楽ピストンの項目を改訂。第1交響曲のディスクを追加しました。(2005-04-18 20:46:08)

アメリカのクラシック音楽のコープランドの項目をジャンル別にしました。そして、「交響曲」に小交響曲の音源を追加してあります。(2005-04-17 23:25:04)

2005年4月24日日曜日

雑感

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106《ハンマークラヴィーア》 ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)伊Decca 433 882-2(モノラル全集Box)

ふわっとした感触。リズムも、それを「刻み」という言葉に還元すると、不安定にさえ思えてくる。以前ルドルフ・ゼルキンで同ソナタを聴いた時にも、「ピアニストにおけるテクニックとは何か」と自問することがあった。その頃は作品表現のために必要なテクニックがあれば、そのテクニックは充分であるという認識であった。

超絶技巧の作品ではおのずと求められるものが違ってくるはずだ。「テクニックが難しいことを感じさせない演奏こそ上手な演奏」ということが金言とされるけれど、技術を見せびらかす作品では「難しく聴かせる」テクニックも必要なのではないかと思われる。ホロヴィッツなどは、ものすごく技巧が鮮やかに聴こえるが、手の部分を見ると(手の大きさやあの尋常でない指さばきを除けば)、いとも楽々と超絶技巧作品を弾いてみせる。

技巧は楽であっても作品が超絶技巧の場合、つまり技巧についての不安はまるっきりないにしても、その余裕をもって作品の超絶技巧さをアピールする表現が必要であるということであろうか。

話がそれてしまった。バックハウスのベートーヴェンは、コントラストを極端に演出しない。そのようなものはベートーヴェンの音楽表現において、それほどのウエイトを占めていないという認識なのであろうか。「バックハウスは楽譜通り弾くだけだ」という文言も見かけたことがあるが、少なくとも《ハンマークラヴィーア》の第1楽章では、冒頭はアレグロというより速いアンダンテであるし(ベートーヴェンのメトロノーム指示通りに弾くことができるか、それが適切であるかという議論は別として)、第2楽章の付点の付け方も必ずしも一貫していない印象を持った。

しかし少ないコントラストの中で、剛直なタッチをもって表情をつけるという音楽は一貫しているように思われるし、《熱情》ソナタのフィナーレには、彼なりの結論を出しているように思う。やはり作品の求める質に対するテクニックということなのだろうか。

ニコラ・バクリ 室内楽作品集 仏Triton TRI 2001/2

ショスタコーヴィチからシェルシまで、幅広い影響を自己の音楽に認めるフランスの若手作曲家。先日のアンサンブル金沢で彼の作品を聴いたのを契機に購入。一聴した感じ、シェルシの影はほとんどなく、強い叙情性を残した現代風な作風だ。一つの楽章内がいくつかの部分に分かれ、それぞれは違ったテンポやテクスチュアで明確にされている。また、じっくりとフレーズが練り上げられて盛り上がってくる楽想も好んで使っているようだ。

他にはTahraレーベルからリリースされたフルトヴェングラーのコレクションで、『In Memoriam』という4枚組CD+CD-ROMから、ベートーヴェンの《エグモント》序曲を聴く。解説書にはトスカニーニとフルトヴェングラーが対比して述べられている。フルトヴェングラーは常に霧の中にさまよい、拍節もあやふやだという。

しかし、この《エグモント》序曲を聴く限り、そこには確固としたベートーヴェン解釈があるし、迷いは感じられない。確かにテンポの揺れはあるが、アンサンブルに乱れはない。断固としたテンポの揺れではないかと思った。映像を見ると、確かにブレのある指揮では打点が分からないだろうけれど、「あやふや」な拍節感であるのかどうかまでは判断できなかった。

おそらくトスカニーニの、断固として揺れないようなテンポ感というものとは違うという意味で、相対的には分からないこともない。

2005年4月15日金曜日

サイト更新

アメリカ音楽関連のリンクの「アイヴズ関連」にサイト2つを追加。紹介されているディスクが面白いのは個人サイトらしいところでしょうか。3番目のディスカションでは、早速ナクソスのアイヴズ集について触れられてますね。

音・音楽関連のリンク を改訂。 (2005-04-08)

アメリカのクラシック音楽バーバーの音楽のページを若干改訂。(2005-04-05)

フォスターの音楽のページにロジェー・ワーグナー盤を追加。(2005-03-29 22:42)

ハワード・ハンソンの音楽のページの記述に若干の追加。第5交響曲についても簡単に触れてあります。(2005-03-27 23:59)

2005年4月6日水曜日

ABQの大フーガ

ベートーヴェン 大フーガ作品133 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 英EMI Classics 5 73606 2(旧全集Box)、CD 4 of 7

符点音符や三連符が支配的なテンポの速いフーガの部分では迫力極まる演奏が聞ける。各奏者の主張が強く、フーガ主題を追うよりも、それと同時進行する多数のフレーズのぶつかり合いの中で飽和する感覚だ。特にアウフタクトでフーガ主題が始まる場所など、そんなに粗野にしなくとも、とさえ思ったくらいだった。一方メノモッソの部分は透明感を持った磨き抜かれた印象で好感が持てた。全体に気負い先行型といった印象。

フーガだからといって、声部から声部へ滔々と楽想が流れ湧き出るバッハ風のものを目指す必要はない。むしろベートーヴェンのフーガは、もっと赤裸々な表現を要求する可能性が強い。ただアルバン・ベルク四重奏団は、やや過剰な演出をしているように聞こえてしまうのである。もしかすると、このフーガを初演時のようにOp. 330のフィナーレとみなしたがためにこういう大段に構える表現になるだろうか。確かにそれならば、こういった音楽になり得なくもないのだけれど。

普段聞いているズスケ四重奏団の自然体な演奏に影響されてしまったのであろうか。

2005年4月3日日曜日

ベートーヴェン、弦楽四重奏全曲シリーズ、第4回

クァドリフォーリオによる、シリーズ第4回目。4月19日、北日本新聞ホールです。
内容は以下の通り。

・ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲連続演奏会実行委員会・会長故・米田寿吉氏追悼
  J.S.バッハ  無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007よりプレリュード
  J.S.バッハ  コラール《主よ人の望みの喜びよ 》
  J.S.バッハ  コラール《目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 》
  エアー(G線上のアリア)

<< 休憩>>

・弦楽四重奏曲3曲
  第5番  イ長調  作品18-5
  第13番  変ロ長調 作品130
  大フーガ 変ロ長調 作品133

(05.04.28. 追記)
音楽雑記帳にこの演奏会の楽曲解説(PDFファイル)をアップロードしました。ご参照くださいませ。

2005年3月30日水曜日

引き続きアニメのサントラなど

バルト(OST)  米MCA Soundtracks MCAD-11388

1995年本国封切りの映画。同年には『トイ・ストーリー』があったせいか、ほとんど注目を浴びなかったアニメ長編。スピルバーグのアンブリメーション最後の作品か。ジェームズ・ホーナーの最後のアニメ・スコアでもある。個人的にはホーナーのアニメ・サントラのベスト。テーマ主題がうまく使われている。クリスマス・シーズンに上映されたことが分かる鈴の音も聞こえてくる(『美女と野獣』にも鈴の音がある)。

映画についてはリアルタイムで体験していないが、DVDで観た感じは、なかなか良く出来ているのではないだろうか。放映当時は「ジフテリアに苦しむアラスカの子供たちのためにワクチンをソリで運んだ際にバルトという犬がリーダーとして活躍したという実話にもとづく映画」というのが売りだったようだ。しかし1000キロともいう道のほとんどを進んだのはトゴという犬でバルトの担当は最後の少しだけだったっとか、ハスキー犬と狼の混血はむしろ歓迎されることが多いなど、本当のバルトと違うところは多いようだ。ディズニーの『ポカホンタス』も随分史実と違うということで批判があったけれど、そもそもアニメという子供向けエンターテイメントにそういった批判をすることがどれだけ作品理解に役立つのかという疑問はある。

おそらくこの『バルト』という映画はそういった「実話」云々よりも、自分らしさについて発見する物語として観た方がずっと面白いのだろう。バルトがジフテリアのワクチンを運んで戻ってきた場面よりも、白狼に出会ってどうなったかの方がずっとドラマ的には重点が置かれるべきではないかと思うのだ。音楽もこの場面、もっとも効果的に使われているように思う。

『アイアン・ジャイアント』(OST) 米Varese Sarabande 302 066 062 2

大音量のスコアに驚く。映画の方はディアローグに合わせて音量が絞られていたのかもしれない。サントラ・ファンの間では、作品を貫くテーマに欠けることが指摘されている。

2005年3月25日金曜日

妙なところが気になる

ハワード・ハンソンの第2交響曲、シュワルツ盤を聴いていた。冒頭のファゴットのピッチがえらく気になる。「間違いではないのか」とさえ思ったため、自演盤と比較(手元にスコアがなかったので)。どうやら一応楽譜通りの音であろうことは分かった。しかしやはり収まりが悪い。おそらくファゴットのピッチがやや高めなのと、他の楽器が小さすぎるからなのだと思う。この冒頭の和音を構成する音としては、ファゴットパートというのは、どちらかと言えば色付け的な役目をしているのだろうから、バランスに気をつけないといけないのだろうと思う。しかしまあ、キワドイ和音を使っていること。指揮者で優れたオーケストレーターだったハンソンならではの楽器法と和声なんだろう。

昨晩は第5交響曲の自演盤LP。ハンソンは5番までをマーキュリーに録音したけれど、私の持っている5番の自演はモノラル盤である。カップリングはバーバーの第1交響曲。

2005年3月20日日曜日

アニメーション映画(+サントラ)いろいろ

アイアン・ジャイアント(1999)

ロボットものアニメはお家芸と考えていた日本のアニメーターたちに衝撃を与えたアメリカのロボット映画と聞く。もちろんクライマックスは日本の初期アニメの時代から知られたおなじみのもの。音楽はマイケル・ケーメンである。地道にアンダースコアの王道を行っているように思う。なにしろ最初に通して観た時は、まったく音楽に注意を払わなかったから。ディズニーと違うのはその辺りだろう。そしてこれは一つの有効なやり方だと思う。

手塚治虫 実験アニメーション作品集

風刺漫画の色合いも見られるような作品が多い。なるほど、こういうものを作っていたのか。個人的にはやはり『ジャンピング』と『おんぼろフィルム』が一番好きだ。後者は音楽のスタイルがサイレント時代を彷佛とさせるもの…と思われるが、正確なことはもう少し勉強の必要があるかもしれない。冨田勲編曲による『展覧会の絵』は、その作られた時代、扱う主題を感じさせる興味深いものだった。まだ観ていない作品も多くある。

リトルフット(オリジナル・サウンドトラック) 米MCA Records MCAD-6266

スティーヴン・スピルバーグとドン・ブルースによる子ども向け恐竜アニメ映画のサウンドトラック。音楽はジェームズ・ホーナー。映画そのものはナレーターとエピソーディックな会話で進むストレートな叙事詩的なもので、そのスローな展開がやや辛かったことは認めねばならない。ただアニメーションの画的な魅力はあると思う。スピルバーグがスリリングな場面を随分カットしたそうで、確かにソフトな感じがする。しかし子ども向けアニメとしては比較的成功し、それなりの収益も上がったのだとか。この辺のアニメをディズニーと混同すると「ディズニーは子どもっぽいだけのアニメ」という誤解を生むのだろうか???

サントラCDを映像から離して聴いて驚いたのは、その音楽の面白さ。「こんなにゴージャスな音楽が流れていたのか?」と思うくらい。しかし映画そのものが観られないと音楽も聴かれなくなってしまうのがサントラの運命なのかもしれない。

ダイアナ・ロスのエンディング曲も、安易な「ヒット狙い」のポップ・バージョンではなく、スコアのテーマを上手く散りばめたもので、好感を持った。

05.3.21. 追記

『リトルフット』の音楽を書いたジェームズ・ホーナーは、他人の作品をうまく仕立てて映画音楽にするということらしく、かなり争論絶えない人のようだ。『バルト』はそうでもないようだが『リトルフット』の場合は、確かにプロコフィエフを引用したような箇所がある(コープランドとプロコフィエフはよく使われる作曲家のようだ)。

ところで『バルト』のそりが崖に落ちそうになる場面の音楽が『ムーラン』と馬とシャン隊長が崖から落ちそうになって助けられるシーンの音楽に似ていることは否めない。『バルト』のつららの落下場面と『ムーラン』雪崩も速めの6/8拍子が共通(つららの落ちる場面の音楽は良い緊張感が出ている。サントラに収録されていないのが残念)。いや「真似している」というのではなく、同じような場面(あ、後発の『ムーラン』におけるこれらの場面はディズニーの仕業か!)には良く似たような音楽がつくものだと実感…。

2005年3月8日火曜日

サイト更新 オリジナル作品のMP3ファイル

MIDIのページに載せた恥かき専用 (^_^;; の自作品から、《明日》Op. 7と《譚詩曲》Op. 12のMP3ファイルを作りました。音質は良くないですが、ご参考までに。アメリカ時代にシンセのLine Outからアナログ出力したものをMDに録音ものがもとになっています。

ちゃんとしたシンセ音源でも買ったら、またMIDI創作も始めたいと思いますが、しばらくは時間もなさそうなので、すいません。

AACファイルでも良かったのですが、互換性を考えてMP3の方を選びました。

2005年3月6日日曜日

長・短調の入り乱れ

掲示板で『宇宙戦艦ヤマト』の話題が出てきたので、ついでに、前から考えていたことを記しておく。

『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌は、長調と短調をうまく揺れ動く名曲だと思う。イントロはBbのペダルトーン(Ebのドミナント)に乗せて、いかにもEbへと勇ましくつながっていくように始まる(ホルンとトロンボーンのカノンは、より明確にEbを暗示)。ところがストリングス中心に下降形の動機が現れるとサブドミナントを経由して、Cmのドミナントへとつながって行く(電子音のグリッサンドが効果的)。もちろん歌はCmがベース。

しかし歌の部分も、さらば(Cm)/地球よ(F)/(中略)/ヤ(Bb)/マ(Gm)/ト(C)と、微妙にメジャー・コードとマイナー・コードを織りまぜている。そしてさらに女声スキャットもEとEbをミステリアスに動いてCとCmを上手く誘導している(最後のヤ(Ab)/マ(Bb)/ト(C)は明確にメジャーなので、そのフィニッシュの後に聞こえてくるスキャットが更に効果的に聴こえる)。最後も「ダダッダダ」は単音のCなので、メジャー/マイナーの別を超えている(あれ、何かコードになってましたっけ?)

#あるいは、旋律的にはドリアンを基礎にしてマイナーと混ぜたということなのでしょうか? さらにコードを付けたというか。

勇壮に進むヤマトと、誰も踏み入れたことのない宇宙の未知の空間の神秘といった雰囲気がうまく表現されていると思う。

2005年3月5日土曜日

夜明け後の世界は?

近づく喝采 -富山市芸術文化ホール- (富山市広報番組『富山市民のひろば』、北日本放送、 29分) 富山市立図書館所蔵のビデオテープ VT771/3

建設中のオーバード・ホールを見学しながら、ホールの概要と芸術監督性の意義などをアピールした広報番組。歴史資料として興味深い。

富山の友人に新しいホールができると聞いて、「どういうホールなの?」と尋ねると、ほぼ条件反射的にでてきた言葉が「三面半」だった。演劇やオペラには詳しくない私は、それがどういったものか分からなかった。いや、現在も分かっていないのかもしれない。このビデオをみて、どういった演出が可能であるか、はじめて説明をされたような気がした。幕によってセットを全く違ったものにする時、それがいかに効率良くできるか、またその効率の良さのおかげで、演出に制限を感ずることなくのびのびとプロダクションが組めるというのが強みなのだろう。

おそらくこのホールができた時は、その可能性に酔いしれていた、あるいは「何だか分からないが、すごいものができるらしい」という感覚だったのかもしれない。市立図書館にはオーバード・ホール関連だけで3つのビデオがあるのだが(いずれも富山市の広報番組)、これらを観ると私も夢を見るような不思議な感覚を覚える。オペラ劇場? 芸術によるまちづくり? すごい。ただただすごい。「最高」という言葉は何度発せられただろう。

さて、夢から覚めた夜明けの世界はどうだったのだろうか。それは現在までどのようにつながってきたのだろうか? 

バーンスタインのR. シューマン

ロベルト・シューマン 交響曲第2番 レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・スタジアム交響楽団 Deutsche Grammophon 477 0002

シューマンの第2交響曲というと、バーンスタインによるPMFのリハーサル風景をNHKで放送していたのが忘れられない。最初から呼吸が合ってないとオーケストラがバラバラになってしまうと言いながら、何度も演奏をやり直していたのを思い出す。

そして、この番組で演奏されていた曲目として気になっていたシューマンの第2交響曲を晩年のウイーン・フィルと録音したCDで入手。ところが、どうもイマ一つこの番組に感じた熱っぽさが聴こえてこない。

ボストンのラジオ局(おそらくWHRB)でもシューマンの第2交響曲を放送する機会があった。モノラルの録音だったが、第1楽章からして、ものすごい熱気。「そうそう、これなのだ。私がイメージしていたものは」という演奏だった。

しかしこの録音はCDになっておらず、ボストン大学の寮から歩いて15分のところにあったニューベリーSt. のタワー・レコードでSonyのロイヤル・エディションのステレオ録音を入手。悪くはない。でもやっぱりあのラジオの演奏ほどのものはない。

マレーシア製のソニーのラジカセで録音したエアチェックテープを大事にしながら、この録音がいつかCDにならないかと思っていた。するとレコード雑誌の広告で、DGのOriginal MastersのセットCDとして米デッカの録音が収録されていると知った。さっそく購入。やっぱりバーンスタインのシューマン2番は、これが一番面白い。第2楽章の最後の壊れ方もさすが。

『Leonard Bernstein: The 1953 American Decca Recordings』と名付けられたこのBox、シューマン以外のCDも楽しみだ。

ところでバーンスタインがシューマンのオーケストレーションについて語っているのは嬉しい。実は私も「シューマンはオーケストレーションが下手だ」という批判は、どうしてもピンとこなかったからだ。これは一体だれが言い出したのか、とても興味がある。私の場合はNHKの番組(おそらく『リクエストアワー』)の解説であったと思う(「ドヴォルザークやチャイコフスキーは一度卒業したら戻ってこない、母親のようなもの」というM氏の偏見 (?) もラジオから聞いた)。

2005年2月26日土曜日

アニメ・サントラ2つ

ビアンカの大冒険:ゴールデン・イーグルを救え Walt Disney Records (Canada) DIS607597

ブルース・ブロートンのスコアは映画を観た後に聴くとビンビン耳に入ってくる。素晴らしい! もちろん細かい部分はダイアローグや画面なしには分からない(エンド・タイトルはそれだけでも充分完結しており、実際の映画でもクレジットを観ながら楽しめる)。それでも音域が次第に上昇するマラフーテのテーマは何度聴いても飽きない(あるいは飽きないように構成されているというべきか)。民族楽器を多用したオーケストレーション(ただしデジリドゥはサントラにはない)、ビートだけでなくて音色も豊かな打楽器は楽しい。歌がないので「ディズニーといえば歌」という人向けではないが、サントラ愛好者は満足する音源だと思う。なお『ビアンカの大冒険』 (1977) から3つの歌が収録されている。もともとはこちらの映画のみのサントラも製作したかったそうだが、権利の関係でうまくいかなかったらしい。

サンベリーナ・おやゆび姫 米SBK Records 8 29126 2

おそらく絵の方はクラシック・ディズニーの雰囲気で迫ったのだろう(微妙な陰影よりもストレートな部分が多いようにも思えるけれど)。しかし音楽の方はもっとブロードウェイ色の濃い「ニューディズニー」の路線のように聴こえる。 "Let Me Be Your Wings" の冒頭の動機は、あるオペラのアリアと似て

2005年2月24日木曜日

細かい問題

Dartmouth Collegeの先生から突然の問い合わせ。なんでも私がラジオ放送について研究していることを知ったそうで、ものすごく特定された質問だった。ウィリアム・シューマンの第2交響曲がラジオ初演された時、一緒に放送された演目は何か、である。

CBSはこの当時のラジオ番組に関しては、会社の功績としてまとめたものと思われるブックレットがあり、当時の主要なクラシック音楽の番組についてはリストアップがされている。当然アメリカの作曲家を紹介した番組も紹介されており、ウィリアム・シューマンの第2交響曲が『Everybody's Music』というニューヨーク・フィルのオフシーズンに放送された番組で、ハワード・バーロー指揮CBS交響楽団によって放送初演されたことが分かる(ちなみにバーローはThe Voice of Firestoneにもよく登場していたようだ)。

ところがこのブックレットにはシューマン作品の放送初演時の他に何が演奏されたかまでは書いてなかった。実は他にも作品が演奏されていたことも考えていなかったのだ! よくよく考えてみれば、放送枠は1時間でもシューマンの交響曲だけで1時間というのはあり得ない。

結局この初演日は分かったので、これを頼りに『ニューヨークタイムズ』の番組表を調べるということで解決。正解はベートーヴェンの第2交響曲。「2番つながり」だったようです。

2005年2月23日水曜日

おやゆび姫 サンベリーナ

ワーナー・ホームビデオ DL-24000

ドン・ブルース監督による1994年の長編アニメを観る。

『サンベリーナ』の音楽、特に歌(バリー・マニロウ作曲)の占める割合は、おそらくディズニーのどの作品よりも多いだろう。映画は冒頭と最後の恋愛ストーリーの間に様々な登場人物とエピソードを挿入したような形になっているようで、その多彩さから、様々なスタイルの音楽が混在している。

本国アメリカにおける映画の評判は、かなり分かれているようだ。批判的な意見だと、登場人物が物語中にどう成長していくかが分かりにくいということや、ブルース監督がサンベリーナに託しているはずの「自分で決断する女性像」というのがうまくいっておらず、アンデルセンの伝統的女性観をくつがえすに至っていないということ、あるいはスタイルが70年代のディズニーであり、90年代のディズニーはもっと先を行っているというものだった。「子供向けには面白い作品だろうが、一緒に行く大人は退屈するかもしれない」という評も少なくなかった(もちろん「ディズニーより面白い」という人もいる)。

また、この映画は日本語で観た方が面白いように思う。歌の部分など、明らかに口の形が違っているが、サンベリーナは、ずっと古典的なヒロインになっているし(それはブルース監督の思惑とは逆なのかもしれないが)、脇役のセンスもいい。またヒスパニックやフレンチ・アクセントといった、オリジナルではやや耳障りな要素(民族的ステレオタイプの使用)が薄れているように思われた。

2005年2月20日日曜日

ディズニー・アニメあれこれ

『ホーム・オン・ザ・レンジ』  (2004)

ディズニーによる2Dアニメの最後と公表されている作品が日本ではついに劇場上映されずDirect-to-Videoとして発売された。登場人物・物語は西部劇をひとひねりしたということだそうだけれど、音楽はハリウッド西部劇のサウンドをしっかり踏襲。一部にヨーデルが入り、バラードも美しい。アラン・メンケンの才能が光る。

メンケンの才能を疑うわけではないが、やはり『リトル・マーメイド』、『美女と野獣』と続くと、やや作風が予測できてしまうので飽きてしまうところがある。『ホーム・オン・レンジ』の場合、作風が違っているのでリフレッシングだったと思う。

インターネット上のレビューでは「大笑いするほどではないが面白い」、「すぐに忘れられるような作品」という厳しい意見も見られる。しかし一夜のエンターテイメントとして観れば、それほど悪い作品ではないと思う。2004年最大の名作というと、そもそもこの映画がそういうものを目指していないように思えてしまう。カートゥーン風の画は面白い。

『ビアンカの冒険~ゴールデン・イーグルを救え』 (1990)

歌が1曲もないフォーマットは『コルドロン』以来か。しかしアンダースコアはとても効果的であるし、画的には美しくスケール感がある。作品としての仕上がりもなかなかで、もっと評価されていい作品だと思う。邦題は何とかならないものか…。今度はサントラもじっくり聴いてみたい。

『南部の歌』 (1946)

実写とアニメの合成。登場する黒人が召し使いとして幸せそうに白人に遣えるという描写が問題だとしてDVD化もされていない不幸な歴史を持った名作。南北戦争以降が物語の設定となっているので、いわゆる奴隷制は(少なくとも形の上では)存在していないし、たとえ当時の黒人の置かれている状況がこの映画と違い、はるかに酷いということがあったとしても、この映画の価値は揺るがないように思う。

というのも、一度みただけでも感じられるのは、むしろ子どものような純粋な心を持てば人種や身分の分け隔てなく人生の素晴らしさを謳歌することができるということだからだ (SaveDisney.comには、もっと優れた論考がある)。反対に人種の認識とそれに付随する差別というのは大人になる過程で身に付き、主人公の母親のようになってしまうのだろうか、と思われてしまうのである。そして、白人で大人になった人々のいくらか(ここでは母親がその一人だとして)が、かつてリーマスおじさんに対してとったように黒人に接していたのではないか、そういった過去に向かい合えないアメリカ人が、この映画を封印しているのではないかということである。もちろん真意は分からないが、もしもそうだとしたら、とても残念なことだと思うし、そうでないことを願っている。

なお私が観た日本盤LDでは、音楽の冒頭部分が数秒欠けているようだ(サントラでこの部分は確認できる)。また日本語で「南部の歌」というタイトルが英語のタイトルの出る場面で出される。これは残念ながら消すことはできないようだ。またフィスク・ジュビリー・シンガーズが歌う黒人霊歌スタイルで書かれた合唱ナンバーも2つあるようだ(その他の部分では黒人音楽の要素を直接感ずることはなかったように思う)。アニメの部分・実写の部分、それぞれに別の作曲家が担当しているが、明確に感じられるような作風の違いはない。

なお『南部の歌』に関しては、こちらを参照していただきたい。

その他、ドン・ブルース監督の『ニムの秘密』 (United Artists)の冒頭部分をもう一度。一回目の時はこの部分に集中できなかったけれど、話の深さが分かると面白い。アメリカにはとてもコアなファンがいるようだ。

追記(2005.3.3.)
『南部の歌』スペシャル・エディションDVDが 2006年、アメリカで発売されるという情報があるそうです。未確認ながら。こちらをご参照あれ。

2005年2月17日木曜日

The Disney Version

Richard Schickelによるディズニー史/伝記をナナメヨミ。ディズニー社の傘下で書かれなかったディズニー本として評価が高いもののようだ。ビジネスのことにはあまり注意を払って読んでいないのだが、例えばウォルトの「革新」「実験」は『白雪姫』で一段落し、その後、急速に型が確立し、新鮮さを失っていく、柔軟性を失っていくといった認識は、確かにこれまで読んできた好意的な本には書かれていなかったように思う(日本では森卓也などは、こういった考え方に共感しているのかもしれないな。彼の『アニメーション入門』を眺めた感じ)。またマルチプレーン・カメラの威力というのが一般の聴衆には分かりにくいということ、それは「エンジニア」としての功績であること、更にはウォルトの考えていたハイ・カルチャーとはどういうものだったのかということにも触れてあって面白い(『ファンタジア』にディームズ・テイラーを迎えた意味など)。もうちょっといろいろ調べてみないといけないな。

Schickelの書いていること、すべてに賛同する訳でもないけれど、こういった批判的な眼を持ち続けることは必要だと思う。

2005年2月6日日曜日

富山シティ・フィルのマーラー5番

富山シティフィルハーモニー管弦楽団 第23回定期演奏会 2月6日(日)富山市・オーバード・ホール、午後2時開演
吉田裕史指揮

ヨハン・シュトラウス2世 喜歌劇《こうもり》序曲
マーラー 交響曲第5番嬰ハ短調

団員の吉田さんからご招待に預かり、久しぶりにシティ・フィルを聴く。おそらく高校の時以来だから、もう20年近く行ってないことになるのだろうか。やはりマーラー、しかも1番以外というのは、もうそれだけで興味を持ってしまう。私のようなオーケストラ音楽の愛好家はやはりマーラーやブルックナー(できれば4番以外)やショスタコーヴィチ(5番以外)を聴きたいものなのである。

技術的な問題は確かにあるけれど(アマオケによる同曲は東京で聴いた新交響楽団についで2度目)、それはある程度シティ・フィルは克服しているようなので、私の方もとやかく考えずに聴いたところがある。案外そういった問題だけでなく、例えば古典派の作品のように、ピアノで容易に声部の動きが分かるような作品でないところに、こういうマーラーの難しさがるのだということが分かり、そういう点が今回の収穫だったかもしれない。

マーラーはオーケストラの楽器法を熟知していたのだろう。特殊奏法の使い方だけでなく、思わぬ楽器の組み合わせを同時進行させるように思う。安易に「弦楽器群」「管楽器群」といった分け方だけでなく、これらの複数の群から一つずつとりだして一つの声部、もう一つずつ取り出して二つ目の声部といったことがかなり行われているように思う。指揮者の力量も問われるし(明確なキュー出しだけでなく、無理のない音楽作りということも含めて、今回の指揮者は素晴らしかった。Bravo!)、演奏家の方も、自分が演奏する個々のフレーズが、特定の部分で、あるいは曲全体の中でどんな役割を担っているのかが分かりにくいこともあるように思う(互いの音が聞こえにくいホールならば、この問題は顕著になる)。また旋律も断片だけとか、アタックなどで色彩効果を狙っているとか、いちいち細かい。マーラーは楽譜をピアノからではなくて、楽器の音とともに考えていたと言っていた大学の先生がいたけれど、その通りかもしれない。

第3楽章ではホルンを指揮者そばに立たせていた(ホルンもBravo!)。サイモン・ラトルもこれを行っており、あるいは近年の「演奏習慣研究」による初演当時の演奏法重視の流れに乗ったものなのかもしれない。これで面白いのは、視覚的に「オブリガート・ホルン」のパートが具体的に明らかになることと、これを音響的に際立てることの意味を考えられたことだろうか。客席からみて左側の反響版に跳ね返る独奏ホルンの響きが、その他のパートと対比され、またデイル・クレヴェンジャーのように顔を真っ赤にして強奏ソロ部分を演奏しなくても、それなりに聴けるということが分かったように思う。

バランス的にはティンパニーがすごく大きく、弦楽器はやや引っ込みがちだったけれど、ティンパニーの音が大きいのは独特の効果としても面白いのだろうか(という気もする)。

帰り道でフィルハーモニア版のスコアを持っている人を見かけた。やっぱりみんな、好きなんですねえ。私はまだ全音版しか持ってないんですが…。次はぜひ9番でも…。

ところでコンサート・オープナーはヨハン・シュトラウス2世の《こうもり》序曲。アンサンブルの技術的な問題がこんなに出る曲だとは思わなかった。マーラーよりも酷だったかも。

ついでに来月の《カルメン》のチケットも購入。もう5階席しかないのか…。大した人気である

メモ:オーバード・ホールに関する不満など

(1)「インフォメーション」というのは何のためにあるのだろう? ホールには何度も行ったが、いまだによく分からないコーナーである。公演に関するグッズ発売でもすればいいのに。せっかくならチケット販売もすればいいのに???

(2)そのチケット販売のブースがどうしてエスカレーター付近にないのだろう? アスネットカウンターの存在を知っている人はいいけれど、そうでない人にはやや不親切に思われるのだが(あのカウンター周辺は、機能的にホールから切り離した方がいいと思う。残したいのなら残すで、やはりエスカレーター付近か出口付近にあった方がいいと思う)。人の流れがそっちに行くから。

(3)駅北駐車場にもっと行きやすくならないのだろうか? いちいち階段を降りて道路を渡らなくてもいいような通路があればいいのに。

ところでオーバード・ホールの業務を民間に委託する動きがあるという噂も聞いたのだが、本当なのだろうか? 赤字続きだとも聞いている…。

フォスター本

藤野幸雄著 夢見る人 作曲家フォスターの一生 勉誠出版 2005年 172ページ

マリエ富山5階の清明堂にて購入。日本語によるフォスターの本というのは、子供向けの一冊を除けば、これが2冊目ではないだろうか。1冊目は音楽之友社から発行されていた津川圭一著『フォスターの生涯』である。昭和26年、音楽文庫43番(富山市民プラザ近くの古本屋で購入)。

ぱっと見た感じ藤野氏の著作には譜例が出てこないようであるし、タイトルから察するに、伝記中心の記述ではないかと思われる。しかしジョン・タスカー・ハワードがスタンダードな伝記であること、あるいはその他米国で出版されたフォスター関連本について紹介もされているので、おそらく資料的にも確かなものになっているのだろう(まだ読んでいないので、何とも言えないが)。

2005年2月3日木曜日

アメリカ実験音楽は民族音楽だった

副題:9人の魂の冒険者たち 柿沼敏江著 フィルムアート社、2005年

先週の土曜日、著者の柿沼さんから新著が届く。扱われている作曲家はカール・ラグルス、パーシー・グレンジャー、ヘンリー・カウエル、シルベストレ・レブエルタス、ルース・クロフォード・シーガー、ハリー・パーチ、ポール・ボウルス、ジョン・ケージ、ルー・ハリソン。この中ではカウエルがなんといってもうれしい。実験音楽の父のように言われながら、本国でも最近まではあまり大きく扱われなかったように思われるからだ。作曲家の選び方が、ご留学時に受けた様々な音楽的刺激を象徴しているようでもある。ピーター・ガーランドの名前が出て「なるほど!」と思った。彼の本にも『In Search of Silvestre Revueltas』というのがあったっけ。

自分がこれまで関心を持ってきた分野でもあるし、「世界音楽」からの視点というのも興味深い。まだパラパラとページをめくっただけだけれど、これから少しずつ内容を消化していこうと思う。

Web-critiqueワレリー・ゲルギエフ指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 富山公演のレビューを掲載。

2005年2月2日水曜日

いろいろ届く

Leonard MaltinのOf Mice and Magicが届く。アメリカのカートゥーン史のスタンダードとして知られているそうだ。というか、見た感じ(本のサイズ、体裁、文体)が、いかにも大学で使われてそうな(学部生向きの)教科書という雰囲気である。

MaltinといえばDisney Filmsの方を感心しながらメモを取っている。読み物としては、こちらの方が面白い(評論っぽい感じもこちらが強い)。今日届いた方は実写映画が入ってないのと、ディズニー以外のアメリカのカートゥーンも幅広く扱っているところが違うということか。この改訂版は1987年出版なので、アップデートもして欲しいなあ。

でも私が留学時に良く見ていたLooney TunesRoad Runnerなどについても書いてある。なつかしい。小さなミスとしては、ミッキー第3作(公開第1作)である『蒸気船ウィリー』の音楽担当がCarl Stallingと書いてあるのが残念。初期は情報が錯綜しているそうだけれど。

マルチプレーン・カメラが長編で初めて使われたのは『ピノキオ』だとどこかのサイトに書いてあったが、最近入手した『白雪姫』の本では、城の場面で初めて使ったと書いてあるようだし…。

『南部の歌』のOSTも届く。イエロー・レーベルの方だ。

2005年1月27日木曜日

音楽振興のためのアイディア:富山の場

とある方と富山の音楽の将来について考えていたときに思い付いたアイディアを箇条書きにしたことがあった。とりあえずここに披露しておく。

富山に音楽を専門とした高等教育機関が必要な理由

(1)地方の音楽についての研究調査
・民俗芸能(新しいものも含む)
チンドンについてはドイツの研究者がいる
・富山の西洋音楽史(演奏史・創作史)
・富山在住の外国人の音楽文化
(2)地域の音楽家ネットワーク作り
・どこで誰がどのような活動をやっているかを調べ、公表する。
・交流の場を与える(音楽祭?)
→ジャンル横断型の交流音楽祭(民謡+クラシック+スチールバンド???)
・富山に関心のある人でないと、やってくれない
(3)知識を持った大学の専門家が興行主と共同作業する
・富山大学の学生がプロデュースしたコンサートを市民プラザで行う etc.
・ホール運営を行っている人に大学に来てもらって構想を練る
(4)音楽を通しての外国との交流
・富山なりのユニークなもの。環日本海でみた音楽文化の交流
(5)アマチュア音楽活動の支援
・大学の先生によるマスタークラス、セミナーなど

とやまの音楽アーカイヴ

富山における音楽活動を記録・保存し、地元の研究を促進すると共に、資料はで
きるだけ公開し、広く県民に関心を持ってもらうことを目的とする。

(1)富山の作曲家に関する資料の菟集。
・文献、雑誌資料、新聞記事、映像・音源
・オンライン目録の制作
(2)富山の音楽活動に関する調査
・プログラム、映像・録音資料、企画書 etc.
・聞き取り調査(オーラル・ヒストリー)
・公会堂における演奏の記録、富大、桐朋 etc.
(3)民俗芸能、民謡の調査
・フィールド・ワーク、先行研究の調査
・富山県ひとづくり財団の活動を拡大する
(4)コンサート
・富山の作曲家の室内楽、歌曲、管弦楽曲etc.
・積極的に音楽家に演奏してもらう(楽譜貸出)。

演奏家が楽曲を研究するためのアーカイヴ
(1)東京文化会館?
(2)市立図書館の拡大?
「ここにくれば音楽の情報がある」というものを

2005年1月20日木曜日

アブ・アイワークス

The Hand behind the Mouse: The Ub Iwerks Story. Walt Disney Home Video 24196 (VHS).

ミッキー・マウスを最初にキャラクターとして描いたのはウォルト・ディズニーではなくアブ・アイワークスだということを本で読んで知ってはいたけれど、こういう風にドキュメンタリーにしてみると、実際のアニメ作品の断片も多く観られることもあって、非常にいきいきとした(=animated!)歴史として楽しむことができた。また彼が『メリー・ポピンズ』やヒッチコックの『鳥』の撮影技術革新に関わっていたことは、初めて知った。そのうち同名の書籍も取り寄せて読んでみたいものである。

このドキュメンタリーの後には『プレーン・クレージー』と『蒸気船ウィリー』が収録されている。ただ後者に関してはカットされた版であることをお知らせしておく(ドキュメンタリー本体でカットシーンを観ることができる。なおWalt Disney Treasuresでリリースされたものはノーカット版である)。

2005年1月17日月曜日

サウンドトラック

最近サウンドトラックと呼ばれるCDやLPを購入する機会が増えた。でもこの「サウンドトラック」というのは不思議な言葉だ。なぜなら買うCDの大半は映画の音楽を収録したもので、音そのものではないからだ。例えば効果音や対話だって音、つまり「サウンド」のはずだからだ。おそらく昔この言葉が生まれた時は映画からの音をそのまま落としたからだったのかもしれないけれど、やはりサントラに効果音がバシバシはいっていたり、おしゃべりがそのまま挿入されていると、「音楽に集中できない」という事態になるのかもしれない。

実際に対話が起こっている映像、効果音の発生する文脈が分かる映像をみれば、むしろ音楽「だけ」というのは不自然であろうし、むしろ特別な効果を狙っていると思われるだろう。しかし映像がないと、とたんに「音楽だけになってほしい」という欲求になるのはどうしてなのだろうか。

いわゆるスコア盤というCD・LPもあるけれど、あれもやはり、クリアに音楽だけ楽しみたい、映画制作時に制約のあった録音機材では掴み切れなかった音楽を聴きたいという欲求から作られるものなのだろうか。

しかし映像を見ながら演奏したOSTは、映画の映像を通して聴いた音楽を扱っているし、なぜか真に迫ってくるものがあるようにも思う。音質が悪いのも「オリジナルに近い」と思うこともある。

カートゥーンの音楽の場合、映像がないと、突然拍子やテンポが変わったり、奇妙な楽器法が使われているなど、かなり実験的なことをやっている場合が多い一方、いわゆる実験音楽のようなラディカルな方向性を向けないといったところがある。「昔からポストモダン的な音楽をやっていた」と評論家が言うのはちょっとこそばゆい感じがするけれど、確かにスタイル混合の面白さはあるように思う。

『ムーラン』の海賊盤サントラはジェリー・ゴールドスミスが作ったスコアが全て収録されているそうだが、一つ一つの曲はごく短く、アンダースコアとは何かを如実に感じさせてくれることになった。また場面場面でモティーフがきっちり入れ替わる辺り、映像を分かっていると面白い一方、そうでないと激しく変わる楽想にどういった意味付けがなされているのか分からないことが多い。

映画音楽=主題曲、挿入歌というイメージは依然強い。しかし私はこういったスコアの魅力というのを最近感ずるようになった。サウンドトラックというのは、本当はミュージック・トラック、スコア・トラックなのかもしれないな。

2005年1月8日土曜日

2005年初コンサート

2005年初コンサートはオーケストラ・アンサンブル金沢のニューイヤー・コンサートだった。寒い一日だったが、石川県立音楽堂の9割以上は埋まっていただろうか。金管合奏による華やかなロビー・コンサートやコンサート5分前の生演奏による「チャイム」など、新年にふさわしい祝祭的雰囲気にも満ち溢れていた。詳細は新聞の演奏評となるので、それに譲ることにしよう。しかし、すでにこのコンサートに何度も足を運ぶ人がいるという手応えを感じたことはご報告しておきたい。

CD販売コーナーでは、ゲスト出演者の一人でもあるチェコのソプラノ、マルセラ・セルノさんが持っていらっしゃったCDが2種類売っていたのでそれらを購入。一目で周辺にある国内盤とは違う感じだった。さすがにサイン会には行かなかったけれど、結構行列ができていた(吉野直子さんも、大人気ですね)。セルノさんのCD、ヨハン・シュトラウスの管弦楽小品やオペレッタのアリアのものが1枚(Johann Strau - Liebeslieder. チェコLupulus LUP 026-2)、もう一つはレハールやカールマンの作品も収録されたもの(Kouzeln Opereta チェコ [?] Men on the Moon MCDP695)だった。

吉野直子さんのハープ協奏曲集も購入(日Sony Music)。本当は演奏されたシュポアのコンチェルタンテのCDが欲しかったのだけれど、吉野さんは録音していないし、他の演奏家のものも現役では出ていないようだ。私はナクソスのヴァイオリンとハープのための作品集の第2集は持っている。

帰りは雪がちらついていた。富山の方では降ってなかったのに。特急電車の中は、おそらく大阪旅行からの帰りなのだろう。みんなぐったりと寝ているようだった。お疲れさま。
ところで金沢駅の発車ベルはお箏の音色だ。短いフレーズなので、長く聴くとちょっと飽きてしまうけれど(そんな人、いないか…)、やはり風情がある。