2010年4月20日火曜日

ショスタコ最終回

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲全曲演奏会 最終回 大澤明弦楽四重奏団 2010年4月20日、北日本新聞ホール 午後7時開演。

ショスタコーヴィチ最終日である。雨の日。前回もこんなぐずついた天気だったような気がする。

富山でやるのに、いや北陸でやるにしてもタフな企画であるため、どれだけ人が入るのかっていうのはあるけれど、実は経費として一番大変なのは、ホール使用料だったりする。ギャラとか著作権料というのもあるのだけれど。

今日、僕はステージマネージャーみたいなことをやっている。といっても、即興で考えた会場アナウンスをやったり、裏方に演奏者登場のタイミングを知らせたりするだけで、基本的に舞台袖で、小さなテレビモニターを見ながら演奏を楽しんでいるという感じだ。

6番は、冒頭からとても手堅いテンポと進め方。丁寧な弾き込みだ。もちろんショスタコーヴィチならではの荒削りのフレーズは容赦なく演奏されるけれども、第1楽章にしても、「そうそう、その動機が大切なんだよね」という動機をヴィオラが展開部で美しく奏でていたのが印象的だった。

第2楽章は、透明な響きが全体を覆うような印象で、それはショスタコーヴィチの音楽に潜む、華奢な部分を示すことでもあるのだけれど、一見相反するような無邪気な推進力とのバランスを楽しんだ。

しっとりと奏でられるチェロのパッサカリア主題にのせて、ほかのパートが滔々と歌い継いでいく第3楽章は、ショスタコーヴィチの音楽に、多くの聴衆が期待する、心の奥深くに訴える、切々とした訴えがあり、こちらが積極的に聞き入れるほどに、しみいる音楽といえる。

中間部に強く訴える箇所もあるけれど、どこかしら幸せ気分のあふれる第4楽章は、ショスタコーヴィチにしては珍しい中庸を感ずる表現であり、抑圧のない自然な音楽を、うまく引き出せていたと思う。

1曲目の後、舞台袖で、軽くチューニング。ちょっと湿度が気になる様子? 松井さんの「行きますか」のかけ声で、舞台に上がる4人。第9番だ。

第2楽章の瞑想的な流れから、ギャロップの第3楽章。これも、とっても大切に弾いている印象。もちろん凄みを聴かせたり、グリッサンドもあって、ヴィヴィッドさにも飛んでいて、これは会場で聴かないと分からないだろうなあ。舞台袖のテレビと必要最小限なスピーカーから漏れ伝わる音を聴きながら「うれやましー」と思いながら、こうやって演奏中にポメラを打てるのもいいなあ。

しかしまあ、第4楽章はノリノリで良かったなあ。舞台袖では「クールダウン、クールダウン」の声。石黒さんは「15番は精神的に大変」とのこと。確かにそうですよねー。

チェロの大澤さんが、「演奏者がお辞儀をして座ってから照明を落としてほしい」というご要望。調整室に伝える。前半は、確かに普通の照明だったけれど、演奏者のみにスポットライトが当たるので、雰囲気が抜群に出てる。いいぞー。なるほど、僕は気がつかなかった、そういう演出も可能なんだと。

地元の新聞社の文化部の方から、後ほど、後半の演目、第15番が演奏されたか、確認をさせてほしいとのことで、私の携帯番号をあげた。明日の朝刊に「イベント」開催のベタ記事を出すのに間に合うには、演奏会の途中で帰らなければいけないからだ。本当ならば、きちんとした批評家が、この日の演奏について伝えるべきだと思うのだけれど、これが地方の現状だと考えてもらった方がよいだろう。

僕などは、ショスタコーヴィチの音楽を聴くと「社会主義リアリズムの功罪」というのが分からなくなることがある。自由な表現の抑圧という、ひどく単純化された、ある意味では、米国の「反共」の態度にも近いその見方では、とうていくみ取ることのできない深淵さをたたえたショスタコーヴィチの音楽、僕は以前、「社会主義リアリズムは何ら良きものを生み出さなかった」と、文学・現代思想を研究されている方から教わったのであるが、こと音楽に関していえば、あのショスタコーヴィチの傑作群があるではないか、と堂々と反論できてしまえそうなのである。

2010年4月18日日曜日

富大授業概略

富山大学で行った授業について

・全学部の学生が対象で、170人の大クラスであった。

・音楽にに詳しい学生も数人いたが(大学オケ所属と思われる者、現在は工学部だがピアノを習っていた経験のある学生、ジャズ研究会に所属している学生、ロックについて、かなりマニアックな知識をもっている学生など)、基本的には、高校までの音楽の時間で音楽を知っている、あるいはマスコミやネットメディア、携帯電話等から音楽を愛好する学生という前提で授業を行った。

・シラバスにみられるように、授業は基本的な音楽概念を扱い、それらを実際に音楽を聴きながら考えさせるものであった。

・概念的な部分について実際の作品を多く聴かせる場合、音楽ジャンルの枠にとらわれることなく、幅広い音源を選ぶことを心がけた。たとえば複合拍子の説明にはジブリ・アニメーションのテーマソングを使用したし、音楽の概念を問う場合には現代音楽も積極的に使用した。声域の広さを体感するため、チベット仏教の一部を聴かせたり、《魔笛》の<夜の女王のアリア>を使ったこともある。

・クラシックの「解釈」について学ばせるため、同一曲の聴き比べを行う授業を一度行ったが、大変好評だった。テレビ番組の「芸能人格付けチェック」のようだと喜んだ学生もいたし、「同じ曲を2つ聴いて違いが分かるか不安だったが、思っていたよりも違っていて驚いた」というコメントが寄せられた。

・こちらの方でもテンポやアーティキュレーションの違いが明確に分かるものを選んだにせよ、学生の感性の鋭さには感心させられた。こちらが普段考えていないような解釈に踏み込んだ学生もあり、私自身の学びが多い授業であった。

・基本的に教師が一つの音楽観に学生を閉じこめることがないようにし、たとえば現代音楽を聴かせるにしても、音楽だと思えないという意見については、決して多くはないが、真剣に音楽と考えている人もいる。最終的な判断は個人個人の問題だ、というスタンスで望んだ。

・期末テストの答案の下に、「音楽の専門ではないが、音楽にとても興味を持つようになった」と書かれているのが、とてもうれしかった。

・質問については、出欠表のコメント欄に積極的に書いてもらうようにし、次の授業では、まずコメントに答えることを最初30分あまり行った。場合によっては、授業をコメントから構築することもあり、例えば「鯨の声は昔からあるというが、音楽のルーツになるのだろうか」という趣旨のコメントから、音楽の起源について、純粋な想像の世界ではなく、考古学で行われている成果、あるいは動物生理学で進められている動物の音反応について、テレビ番組を使いながら紹介した。

[メモ] 富山大学で行った授業について

・全学部の学生が対象で、170人の大クラスであった。

・音楽にに詳しい学生も数人いたが(大学オケ所属と思われる者、現在は工学部だがピアノを習っていた経験のある学生、ジャズ研究会に所属している学生、ロックについて、かなりマニアックな知識をもっている学生など)、基本的には、高校までの音楽の時間で音楽を知っている、あるいはマスコミやネットメディア、携帯電話等から音楽を愛好する学生という前提で授業を行った。

・シラバスにみられるように、授業は基本的な音楽概念を扱い、それらを実際に音楽を聴きながら考えさせるものであった。

・概念的な部分について実際の作品を多く聴かせる場合、音楽ジャンルの枠にとらわれることなく、幅広い音源を選ぶことを心がけた。たとえば複合拍子の説明にはジブリ・アニメーションのテーマソングを使用したし、音楽の概念を問う場合には現代音楽も積極的に使用した。声域の広さを体感するため、チベット仏教の一部を聴かせたり、《魔笛》の<夜の女王のアリア>を使ったこともある。

・クラシックの「解釈」について学ばせるため、同一曲の聴き比べを行う授業を一度行ったが、大変好評だった。テレビ番組の「芸能人格付けチェック」のようだと喜んだ学生もいたし、「同じ曲を2つ聴いて違いが分かるか不安だったが、思っていたよりも違っていて驚いた」というコメントが寄せられた。

・こちらの方でもテンポやアーティキュレーションの違いが明確に分かるものを選んだにせよ、学生の感性の鋭さには感心させられた。こちらが普段考えていないような解釈に踏み込んだ学生もあり、私自身の学びが多い授業であった。

・基本的に教師が一つの音楽観に学生を閉じこめることがないようにし、たとえば現代音楽を聴かせるにしても、音楽だと思えないという意見については、決して多くはないが、真剣に音楽と考えている人もいる。最終的な判断は個人個人の問題だ、というスタンスで望んだ。

・期末テストの答案の下に、「音楽の専門ではないが、音楽にとても興味を持つようになった」と書かれているのが、とてもうれしかった。

・質問については、出欠表のコメント欄に積極的に書いてもらうようにし、次の授業では、まずコメントに答えることを最初30分あまり行った。場合によっては、授業をコメントから構築することもあり、例えば「鯨の声は昔からあるというが、音楽のルーツになるのだろうか」という趣旨のコメントから、音楽の起源について、純粋な想像の世界ではなく、考古学で行われている成果、あるいは動物生理学で進められている動物の音反応について、テレビ番組を使いながら紹介した。

京都旅行中のメモ

今日は,地元の合唱団が京都の合唱団の演奏会に友情出演するとかで、20人ばかりが特急電車で京都まで出かけている。仏教系の合唱団で、「演奏旅行」には補助もでるという。うーん、恵まれてますねえ、浄土真宗は。

朝7時24分は、それにしても早い。でも京都・大阪に到着するのが10時台なので、重宝しているのか、富山から乗る人も結構多いようだ。

僕は今回初めてネットで切符を予約するというのを試みた。通常窓口で買うより、若干安いみたいだし、自動販売機でカードを挿入し予約番号を打ち込むだけで買えるので、なにげに便利かも。

僕が参加している合唱団よりも、相手方の合唱団の方が数段上手なのだろうなということは、ちょっと聴いただけでもわかる。それと同時に、仏教系の合唱団というのは、僕はそれほど知らないのだけれど、意外に全国的に存在し、かつ、その合唱団のために作曲された曲が結構あるということである。また、今回の演奏会では、大中恩の《涅槃》という曲が披露され、オラトリオに影響されているなあと思いながら聴いたのであるが、この作曲家はクリスチャンであるということ。それでも、仏教系合唱団に西洋音楽風のレパートリーの必要性を感じて、この《涅槃》というのを書いたのだという事実に、とても興味を持った。