最近サウンドトラックと呼ばれるCDやLPを購入する機会が増えた。でもこの「サウンドトラック」というのは不思議な言葉だ。なぜなら買うCDの大半は映画の音楽を収録したもので、音そのものではないからだ。例えば効果音や対話だって音、つまり「サウンド」のはずだからだ。おそらく昔この言葉が生まれた時は映画からの音をそのまま落としたからだったのかもしれないけれど、やはりサントラに効果音がバシバシはいっていたり、おしゃべりがそのまま挿入されていると、「音楽に集中できない」という事態になるのかもしれない。
実際に対話が起こっている映像、効果音の発生する文脈が分かる映像をみれば、むしろ音楽「だけ」というのは不自然であろうし、むしろ特別な効果を狙っていると思われるだろう。しかし映像がないと、とたんに「音楽だけになってほしい」という欲求になるのはどうしてなのだろうか。
いわゆるスコア盤というCD・LPもあるけれど、あれもやはり、クリアに音楽だけ楽しみたい、映画制作時に制約のあった録音機材では掴み切れなかった音楽を聴きたいという欲求から作られるものなのだろうか。
しかし映像を見ながら演奏したOSTは、映画の映像を通して聴いた音楽を扱っているし、なぜか真に迫ってくるものがあるようにも思う。音質が悪いのも「オリジナルに近い」と思うこともある。
カートゥーンの音楽の場合、映像がないと、突然拍子やテンポが変わったり、奇妙な楽器法が使われているなど、かなり実験的なことをやっている場合が多い一方、いわゆる実験音楽のようなラディカルな方向性を向けないといったところがある。「昔からポストモダン的な音楽をやっていた」と評論家が言うのはちょっとこそばゆい感じがするけれど、確かにスタイル混合の面白さはあるように思う。
『ムーラン』の海賊盤サントラはジェリー・ゴールドスミスが作ったスコアが全て収録されているそうだが、一つ一つの曲はごく短く、アンダースコアとは何かを如実に感じさせてくれることになった。また場面場面でモティーフがきっちり入れ替わる辺り、映像を分かっていると面白い一方、そうでないと激しく変わる楽想にどういった意味付けがなされているのか分からないことが多い。
映画音楽=主題曲、挿入歌というイメージは依然強い。しかし私はこういったスコアの魅力というのを最近感ずるようになった。サウンドトラックというのは、本当はミュージック・トラック、スコア・トラックなのかもしれないな。
0 件のコメント:
コメントを投稿