2010年12月20日月曜日
紀伊國屋書店 富山店 でいろいろと
・月刊 Pen 1//1・15「キリスト教とは何かII」
・月刊 Pen 12/15「ディズニー完全読本」
・ヒューストン・A・ベイカー・ジュニア著、小林憲二訳『モダニズムとハーレム・ルネッサンス』(未来社、2006)
・二宮素子『宮廷文化と民衆文化』 (世界史リブレット) (山川出版社、1999)
・青木裕司『青木世界史B 講義の実況中継』 (4) (5) (語学春秋社、2003、2005)
mixiのマイミクさんのオススメということで、青木世界史Bを買ってみましたよ。この手の受験用参考書って、結局買ったことがなかったです (赤本は買ったことがあったけど、結局お金の無駄遣いになりました) 。いわゆる学術書じゃないけど、読みやすそうですね。CD付きで1,300円っていうのは、参考書だからなんでしょうか、安いですねえー。
月刊Penのキリスト教の号は第2弾。実は第1弾も持っています。ビジュアル的なアピール度はけっこうあって、美術全集を揃える余裕がない自分にとっては、ありがたいものかもしれないなと思ったりします。
ディズニー特集は、なかなかの情報量がありそうです。写真の魅力は、この号も同じ。
ハーレム・ルネサンスについては、アメリカでも本やら音源やら入手していたハズだけど、日本語の本を見たのは初めてかな? この手の本が普通に置かれるようになったのは、紀伊国屋のおかげで、富山の文化的には進歩といってもいいんじゃないかな。
宮廷文化…は、なんとなく中世やルネサンス音楽の背景にあるものを知りたくなったため。いわゆる両方とも「世俗」なんだろうけど、後者の音楽ってどのくらい残ってるものなのだろうね。
ということで、メモ的に書いてみました。
2010年12月6日月曜日
「売れない日本語」かあ
2010年11月9日火曜日
第61回日本音楽学会全国大会:番外編
2010年10月18日月曜日
執筆活動記録10月 (2)
2010年10月4日月曜日
最近観たもの・聴いたもの
2010年10月3日日曜日
執筆活動記録10月 (1)
2010年9月30日木曜日
執筆活動記録9月 (その2)
『レコード芸術』の「海外盤試聴記」、10月号は、以下のディスクです。Naxosのアメリカ音楽は、毎月コンスタントに出続けていますので、引き続き取り上げていく予定です。その他はel (Cherry Red Recods) から、20世紀音楽の貴重な復刻を2点。このレーベル、現代音楽専門っていう訳ではないのですが、時々おやっと思うものをリリースしてくれるようです。シュトックハウゼン/ブーレーズのは、特に注目かと。
・エリック・ウィテカー:合唱作品集 (彼女の聖なる魂が舞い上がる、少年と少女、水の夜、結婚、ルクス・アルムクェ (黄金の光)、小さな木、ダビデ王が息子アブサロムの戦死を聞いた時、レオナルドは空飛ぶマシーンを夢見る、私はこの素晴らしき日を神に感謝する、眠り、小鳥 ノエル・エジソン指揮エローラ・フェスティバル・シンガーズ、レスリー・デアス(ピアノ)、キャロル・バウマン (パーカッション) Naxos 8.559677<録音=2009年4月>
・ジョン・ケージ フォンタナ・ミックス、ファースト・コンストラクション・イン・メタル、カリヨンのための音楽第1番、ウィリアム・ミックス、街はソフト帽をかぶっている、変化の音楽 イタリア放送電子音楽スタジオ、ポール・プライス指揮マンハッタン打楽器アンサンブル、デヴィッド・チュードア (ピアノ、電子カリヨン)ほか el (Cherry Red Recods) ACMEM194CD <録音=1958年、1958年5月、1942年5月、1953年3月>
・カールハインツ・シュトックハウゼン、ピエール・ブーレーズ:ニュー・ディレクション・イン・ミュージック (シュトックハウゼン:エチュード、ツァイトマッセ、ピアノ曲第11番 [3ヴァージョン]、ブーレーズ:ル・マルトー・サン・メートル)、ロバート・クラフト指揮アンサンブル、マージェリー・マケイ (アルト)、デヴィッド・チュードア (ピアノ) el Records (Cherry Red Recods) ACMEM183CD
<録音=1953年、1958年2月、1958年9月>
2010年9月22日水曜日
執筆活動記録9月 (その1)
2010年8月14日土曜日
2010年8月3日火曜日
聴いたもの記録
2010年7月4日日曜日
聴いたもの記録
2010年7月3日土曜日
聴いたもの記録
ノンサッチのシリーズで、チベット仏教の声明の2枚目を頑張って聴こうとしたけど、途中で挫折したため、こちらに切り替えてみた。今日のところは、これで良かったかも。
1981年のスタジオ録音。しかもデジタル。低音までしっかり入ってて、聴き応えあり。ラーガ・クルワーニという曲、やはりインドのラーガのように、テンポが終盤になると速くなって、さっと持っていかれるところが気持ちいい。
2曲目のガザルで使われている音階は琉球音階と同じかな。ペロッグとか言うんだっけ?
民族=音楽学として、文化的文脈における音楽という点では、スタジオ録音というのはよろしくないということになるのかもしれないけど、これだけの音でこれだけの演奏を聴かせられると、世界音楽のディスクとしては、かなり堪能できる方ではないだろうか? 少なくとも私はパキスタンの音楽伝統により興味を持った。
ところで、別の音源(『パキスタン:ヒンデゥークシュの楽人たち チトラル地方の音楽』)のブックレットを読んでたら、イスラムには宗教歌は存在しないが、イスマイル派は戒律が厳しくなく、聖職者が宗教歌が歌うことがあるんだとか。へええ。
今日聴いた民族音楽
ノンサッチのシリーズで、チベット仏教の声明の2枚目を頑張って聴こうとしたけど、途中で挫折したため、こちらに切り替えてみた。今日のところは、これで良かったかも。
1981年のスタジオ録音。しかもデジタル。低音までしっかり入ってて、聴き応えあり。ラーガ・クルワーニという曲、やはりインドのラーガのように、テンポが終盤になると速くなって、さっと持っていかれるところが気持ちいい。
2曲目のガザルで使われている音階は琉球音階と同じかな。ペロッグとか言うんだっけ?
民族=音楽学として、文化的文脈における音楽という点では、スタジオ録音というのはよろしくないということになるのかもしれないけど、これだけの音でこれだけの演奏を聴かせられると、世界音楽のディスクとしては、かなり堪能できる方ではないだろうか? 少なくとも私はパキスタンの音楽伝統により興味を持った。
ところで、別の音源(『パキスタン:ヒンデゥークシュの楽人たち チトラル地方の音楽』)のブックレットを読んでたら、イスラムには宗教歌は存在しないが、イスマイル派は戒律が厳しくなく、聖職者が宗教歌が歌うことがあるんだとか。へええ。
2010年6月30日水曜日
執筆活動報告 2010年6月 (3)
執筆活動報告 2010年6月 (2)
・ペレーニ チェロ・リサイタル J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第 3 番ハ長調 BWV1009、ブリテン:チェロ・ソナタハ長調 Op.65、ブラームス:チェロ・ソナタ第 2 番ヘ長調 Op.99、ショパン:チェロ・ソナタト短調Op.65より第3楽章 ミクロシュ・ペレーニ(チェロ)、デーネシュ・ヴァーリョン(ピアノ) Wigmore Hall Live WHLIVE0035<録音=2009年1月>
・ショパン:ピアノ作品集 (夜想曲第14番嬰へ短調Op.48‐2、スケルツォ第1番ロ短調Op.20、夜想曲第5番嬰ヘ長調Op.15‐2、幻想即興曲嬰ハ短調Op.66、スケルツォ第3番嬰ハ短調Op.39、夜想曲第13番ハ短調Op.48‐1、スケルツォ第4番ホ長調Op.54、夜想曲第20番嬰ハ短調(1830)遺作、スケルツォ第2番変ロ長調Op.31、夜想曲第17番変ニ長調Op.27‐2 エリザベート・レオンスカヤ (ピアノ) MDG 943 1558-6<録音=2008年6月>
・ザイモント:管弦楽作品集 (《クロマ:ノーザン・ライツ》 (1985)、交響曲第2番《私を忘れないで》(2000) から<ゴースト>、<弦楽のためのエレジー>、管弦楽のための《スティルネス:詩曲》(2004) ロベルト・マレシェク(ヴァイオリン)、ジョゼフ・スコレパ (ヴァイオリン)、カーク・トレヴォー指揮スロヴァキア・ナショナル交響楽団 Naxos 8.559619 <録音=2008年9月>
執筆活動報告 2010年6月 (1)
2010年6月29日火曜日
蒸し暑い日が続きますね
2010年6月19日土曜日
近況など
ごぶさたしております
2010年4月20日火曜日
ショスタコ最終回
ショスタコーヴィチ最終日である。雨の日。前回もこんなぐずついた天気だったような気がする。
富山でやるのに、いや北陸でやるにしてもタフな企画であるため、どれだけ人が入るのかっていうのはあるけれど、実は経費として一番大変なのは、ホール使用料だったりする。ギャラとか著作権料というのもあるのだけれど。
今日、僕はステージマネージャーみたいなことをやっている。といっても、即興で考えた会場アナウンスをやったり、裏方に演奏者登場のタイミングを知らせたりするだけで、基本的に舞台袖で、小さなテレビモニターを見ながら演奏を楽しんでいるという感じだ。
6番は、冒頭からとても手堅いテンポと進め方。丁寧な弾き込みだ。もちろんショスタコーヴィチならではの荒削りのフレーズは容赦なく演奏されるけれども、第1楽章にしても、「そうそう、その動機が大切なんだよね」という動機をヴィオラが展開部で美しく奏でていたのが印象的だった。
第2楽章は、透明な響きが全体を覆うような印象で、それはショスタコーヴィチの音楽に潜む、華奢な部分を示すことでもあるのだけれど、一見相反するような無邪気な推進力とのバランスを楽しんだ。
しっとりと奏でられるチェロのパッサカリア主題にのせて、ほかのパートが滔々と歌い継いでいく第3楽章は、ショスタコーヴィチの音楽に、多くの聴衆が期待する、心の奥深くに訴える、切々とした訴えがあり、こちらが積極的に聞き入れるほどに、しみいる音楽といえる。
中間部に強く訴える箇所もあるけれど、どこかしら幸せ気分のあふれる第4楽章は、ショスタコーヴィチにしては珍しい中庸を感ずる表現であり、抑圧のない自然な音楽を、うまく引き出せていたと思う。
1曲目の後、舞台袖で、軽くチューニング。ちょっと湿度が気になる様子? 松井さんの「行きますか」のかけ声で、舞台に上がる4人。第9番だ。
第2楽章の瞑想的な流れから、ギャロップの第3楽章。これも、とっても大切に弾いている印象。もちろん凄みを聴かせたり、グリッサンドもあって、ヴィヴィッドさにも飛んでいて、これは会場で聴かないと分からないだろうなあ。舞台袖のテレビと必要最小限なスピーカーから漏れ伝わる音を聴きながら「うれやましー」と思いながら、こうやって演奏中にポメラを打てるのもいいなあ。
しかしまあ、第4楽章はノリノリで良かったなあ。舞台袖では「クールダウン、クールダウン」の声。石黒さんは「15番は精神的に大変」とのこと。確かにそうですよねー。
チェロの大澤さんが、「演奏者がお辞儀をして座ってから照明を落としてほしい」というご要望。調整室に伝える。前半は、確かに普通の照明だったけれど、演奏者のみにスポットライトが当たるので、雰囲気が抜群に出てる。いいぞー。なるほど、僕は気がつかなかった、そういう演出も可能なんだと。
地元の新聞社の文化部の方から、後ほど、後半の演目、第15番が演奏されたか、確認をさせてほしいとのことで、私の携帯番号をあげた。明日の朝刊に「イベント」開催のベタ記事を出すのに間に合うには、演奏会の途中で帰らなければいけないからだ。本当ならば、きちんとした批評家が、この日の演奏について伝えるべきだと思うのだけれど、これが地方の現状だと考えてもらった方がよいだろう。
僕などは、ショスタコーヴィチの音楽を聴くと「社会主義リアリズムの功罪」というのが分からなくなることがある。自由な表現の抑圧という、ひどく単純化された、ある意味では、米国の「反共」の態度にも近いその見方では、とうていくみ取ることのできない深淵さをたたえたショスタコーヴィチの音楽、僕は以前、「社会主義リアリズムは何ら良きものを生み出さなかった」と、文学・現代思想を研究されている方から教わったのであるが、こと音楽に関していえば、あのショスタコーヴィチの傑作群があるではないか、と堂々と反論できてしまえそうなのである。
2010年4月18日日曜日
富大授業概略
・全学部の学生が対象で、170人の大クラスであった。
・音楽にに詳しい学生も数人いたが(大学オケ所属と思われる者、現在は工学部だがピアノを習っていた経験のある学生、ジャズ研究会に所属している学生、ロックについて、かなりマニアックな知識をもっている学生など)、基本的には、高校までの音楽の時間で音楽を知っている、あるいはマスコミやネットメディア、携帯電話等から音楽を愛好する学生という前提で授業を行った。
・シラバスにみられるように、授業は基本的な音楽概念を扱い、それらを実際に音楽を聴きながら考えさせるものであった。
・概念的な部分について実際の作品を多く聴かせる場合、音楽ジャンルの枠にとらわれることなく、幅広い音源を選ぶことを心がけた。たとえば複合拍子の説明にはジブリ・アニメーションのテーマソングを使用したし、音楽の概念を問う場合には現代音楽も積極的に使用した。声域の広さを体感するため、チベット仏教の一部を聴かせたり、《魔笛》の<夜の女王のアリア>を使ったこともある。
・クラシックの「解釈」について学ばせるため、同一曲の聴き比べを行う授業を一度行ったが、大変好評だった。テレビ番組の「芸能人格付けチェック」のようだと喜んだ学生もいたし、「同じ曲を2つ聴いて違いが分かるか不安だったが、思っていたよりも違っていて驚いた」というコメントが寄せられた。
・こちらの方でもテンポやアーティキュレーションの違いが明確に分かるものを選んだにせよ、学生の感性の鋭さには感心させられた。こちらが普段考えていないような解釈に踏み込んだ学生もあり、私自身の学びが多い授業であった。
・基本的に教師が一つの音楽観に学生を閉じこめることがないようにし、たとえば現代音楽を聴かせるにしても、音楽だと思えないという意見については、決して多くはないが、真剣に音楽と考えている人もいる。最終的な判断は個人個人の問題だ、というスタンスで望んだ。
・期末テストの答案の下に、「音楽の専門ではないが、音楽にとても興味を持つようになった」と書かれているのが、とてもうれしかった。
・質問については、出欠表のコメント欄に積極的に書いてもらうようにし、次の授業では、まずコメントに答えることを最初30分あまり行った。場合によっては、授業をコメントから構築することもあり、例えば「鯨の声は昔からあるというが、音楽のルーツになるのだろうか」という趣旨のコメントから、音楽の起源について、純粋な想像の世界ではなく、考古学で行われている成果、あるいは動物生理学で進められている動物の音反応について、テレビ番組を使いながら紹介した。
[メモ] 富山大学で行った授業について
・音楽にに詳しい学生も数人いたが(大学オケ所属と思われる者、現在は工学部だがピアノを習っていた経験のある学生、ジャズ研究会に所属している学生、ロックについて、かなりマニアックな知識をもっている学生など)、基本的には、高校までの音楽の時間で音楽を知っている、あるいはマスコミやネットメディア、携帯電話等から音楽を愛好する学生という前提で授業を行った。
・シラバスにみられるように、授業は基本的な音楽概念を扱い、それらを実際に音楽を聴きながら考えさせるものであった。
・概念的な部分について実際の作品を多く聴かせる場合、音楽ジャンルの枠にとらわれることなく、幅広い音源を選ぶことを心がけた。たとえば複合拍子の説明にはジブリ・アニメーションのテーマソングを使用したし、音楽の概念を問う場合には現代音楽も積極的に使用した。声域の広さを体感するため、チベット仏教の一部を聴かせたり、《魔笛》の<夜の女王のアリア>を使ったこともある。
・クラシックの「解釈」について学ばせるため、同一曲の聴き比べを行う授業を一度行ったが、大変好評だった。テレビ番組の「芸能人格付けチェック」のようだと喜んだ学生もいたし、「同じ曲を2つ聴いて違いが分かるか不安だったが、思っていたよりも違っていて驚いた」というコメントが寄せられた。
・こちらの方でもテンポやアーティキュレーションの違いが明確に分かるものを選んだにせよ、学生の感性の鋭さには感心させられた。こちらが普段考えていないような解釈に踏み込んだ学生もあり、私自身の学びが多い授業であった。
・基本的に教師が一つの音楽観に学生を閉じこめることがないようにし、たとえば現代音楽を聴かせるにしても、音楽だと思えないという意見については、決して多くはないが、真剣に音楽と考えている人もいる。最終的な判断は個人個人の問題だ、というスタンスで望んだ。
・期末テストの答案の下に、「音楽の専門ではないが、音楽にとても興味を持つようになった」と書かれているのが、とてもうれしかった。
・質問については、出欠表のコメント欄に積極的に書いてもらうようにし、次の授業では、まずコメントに答えることを最初30分あまり行った。場合によっては、授業をコメントから構築することもあり、例えば「鯨の声は昔からあるというが、音楽のルーツになるのだろうか」という趣旨のコメントから、音楽の起源について、純粋な想像の世界ではなく、考古学で行われている成果、あるいは動物生理学で進められている動物の音反応について、テレビ番組を使いながら紹介した。
京都旅行中のメモ
朝7時24分は、それにしても早い。でも京都・大阪に到着するのが10時台なので、重宝しているのか、富山から乗る人も結構多いようだ。
僕は今回初めてネットで切符を予約するというのを試みた。通常窓口で買うより、若干安いみたいだし、自動販売機でカードを挿入し予約番号を打ち込むだけで買えるので、なにげに便利かも。
僕が参加している合唱団よりも、相手方の合唱団の方が数段上手なのだろうなということは、ちょっと聴いただけでもわかる。それと同時に、仏教系の合唱団というのは、僕はそれほど知らないのだけれど、意外に全国的に存在し、かつ、その合唱団のために作曲された曲が結構あるということである。また、今回の演奏会では、大中恩の《涅槃》という曲が披露され、オラトリオに影響されているなあと思いながら聴いたのであるが、この作曲家はクリスチャンであるということ。それでも、仏教系合唱団に西洋音楽風のレパートリーの必要性を感じて、この《涅槃》というのを書いたのだという事実に、とても興味を持った。
2010年3月16日火曜日
現状打破を考えたい、今の私
一方で、現在いる場所の方が、いまいったように、とても恵まれているはずなのに、クラシックに没頭しにくいのはなぜだろう。もちろん自分がアカデミアにいないことや、母国語だけの世界で安住して緊張感がないこともあるのだろう。でも、それだけではなく、集中しにくい何かがあるような気がしてならない。あるいは恵まれていて、いろんなものがあふれているため、何か一つのことに集中できないということなのかもしれない。
よくよく考えて、現状を改善したいものだ。
2010年3月12日金曜日
アナログを語る会2010年3月
アナログを語る会は、音楽愛好家の自由の集まりだ。会員各自が持つLPレコードを、ジャンルを問わず聴くものである。今月でアナログを語る会は109回目。もう10年になろうとしている。参加者は南砺市福光を中心に、私を含め、富山市からも参加している。
持ち込まれるレコードのジャンルに規制はない。ただ1、2年前からはテーマを毎回設定するようにしており、今回は「春の花」。1時間ほどはテーマにもとづいたレコードを聴き、その他の時間では、聴きたいもの・聴いてもらいたいものをプレーヤーに乗せる。
参加する人は、30代から70代まで、職業も様々。リアルタイムにアナログ・レコードを体験した人もいれば、CD世代の人もいる。蓄音機を家に何台も集める人がいれば、オーディオ・マニアもいる。
聴き方も自由。かしこまったところはなく、静かに聴けと強要する人もおらず、時にはにぎやかに雑談に花を咲かすこともある。
会場にあったレコードをかいつまんでみると、以下の通り。
・Lars Gullin Quartet VLS-1604-E (Metronome Redords [テイチク])
・スーパー・ギター・トリオ・ライブ アル・ディ・メオラ、パコ・ルシア、ジョン・マクラフリン CBSソニー 25AP2035
・ブラジル音楽の故郷〜北東部とバイーアの音楽 フィリップス FD-7134〜36 から
・カール・ミュンヒンガー 《四季》より<春>、カール・ミュンヒンガー ショトゥットガルト室内管弦楽団
・Dave Brubeck in Berlin CBS Sony SOPM 182
・ブレイズン・ブラス ハリウッドへ行く ヘンリー・ジェローム楽団 編曲 ディック・ジェイカブス DeccaJDL-5051 Brazen Brass Goes Hollywood Henry Jerome and his orchestra
・Robert Stolz Meinen Freunden zur Erinnerung. RCA VL 30377
・オリジナル盤による川田正子・孝子 不滅の童謡アルバム コロムビア EDM25~26
・カーメン・キャバレロ 日本の詩情 スーパー・デラックス ビクター音楽産業 MCA-10004
・ホリデイ・イン・ジャパン リカルド・サントスとミリオン・ストリングス 日本グラモフォン LPPM-3
・君は薔薇より美しい 布施明 キング GR-280
・ワシントン広場の夜は更けて ロイヤル・ポップス・オーケストラ 東芝 TP 7100 2曲目 私のベイビー 多くの人が思い出していた。公民館で歌を楽しんでいた時代とも。
・日本の郷愁 シー・バレンツ・オーケストラ キャニオン C20R0045 Sea Barents Orchestra
そのほかステレオ・デモンストレーション・レコードの話もあった。
2010年3月5日金曜日
クセナキスから、開かれた耳へ?
クセナキス作品を聴く上で、いわゆる「クラシック」の音感覚が邪魔になることは間違いないのではないか。音群を語っているということ自体、一定時間に空間に放たれる音高と、複数であればそれらの組み合わせの「美しさ」に感覚をとぎすます
コントロールの行き届いた《アトレ》グリッサンドや、突然のクラリネットのロングトーンが、一つの境目となり、次のセクションに入ったような気になる。
シモノヴィッチは初演者。トランペットやトロンボーンのぶりっとした鳴り方、弦楽器のトレモロ、音色によって、かなり性格が変わるし、楽器のアタックというのも交錯している。
クラリネットのロングトーンが一つの節目になっているのは確か。ロングトーンがこれ以降増えている。打楽器が入ってこない。性的な展開、音色がものをいうように。トロンボーンのフラッターが印象的。それで沈黙。
音を重ねるようになってくる? グラデーション的な変化。少しずつエネルギーを増し、グリッサンドも戻ってくる。がっちりとした音の構築を感じさせる作品であり、アーティキュレーションも、発音も明瞭だ。
2曲目は1曲目とちがって、静寂やなめらかさが際だっている。このなめらかさに、聴きいってしまうところがある。
《ヘルマ》…高橋悠治の噛みつき襲いかかる感覚にどうしてもぐいと引かれてしまう。
《ポラ・ティ》…は他の作品に比べ、ドラマ的要素に富んでいる。打楽器の打ち込むようなリズムと、淡々と同音で歌う少年合唱が、突き放したような、それだからこそ持つ、冷めたような、それでいて力強い訴えを持っている。
クセナキスによって開発された統計学的なプログラムをつかって作られたIBM7090による計算を、ここで録音しているシモノヴィチによって1962年に行われたパリ・IBMインスタレーションでリアライズされた。
統計学・数学は、もちろんクセナキスの作品理解の一助になるのだろうけれど、とりあえず虚心に耳を傾けて、音の蠢きを体感せねば、それらも無意味であろう。彼がギリシャで過ごした経験が、少なからずとも自叙伝として彼の音響に反映していることは、おそらく間違いないのだから。
クセナキスの評価は、おそらくこのCDに収録された音源がLPレコードで発売されたころとは、また違っているのかもしれない。
クセナキス作品を聴く上で、いわゆる「クラシック」の音感覚が邪魔になることは間違いないのではないか。音群を語っているということ自体、一定時間に空間に放たれる音高と、複数であればそれらの組み合わせの「美しさ」に感覚をとぎすます行為は、与えられた美意識に身を預けてしまうことにもなりかねず、作品をもって新しい美意識を覚醒しうる可能性を、自ら閉じてしまうことになりはしないだろうか。
もちろん僕自身の中に、19世紀までに培われた音の「美しさ」なるものを肯定する気持ちはあるが、それはそのまま、新しい聴き方・新しい表現を否定することにもなるまい。いずれにせよ、耳を開くことは、「映画音楽のような」と揶揄される、クラシック愛好家に受ける作品に対しても行われるべきではないかという主張も、これまた当てはまる。
となると、ジョン・ケージが嫌いなベートーヴェンやミューザックも、好き嫌いはともかく、存在を否定することはできなくなってしまうのだろうか。