今では数多くのディスクで親しめるクセナキス作品ではあるが、おそらくCD2枚組に収められた音源がLPで発売されたときは、現代音楽界に大きな影響を与えたのではないだろうか。
クセナキス作品を聴く上で、いわゆる「クラシック」の音感覚が邪魔になることは間違いないのではないか。音群を語っているということ自体、一定時間に空間に放たれる音高と、複数であればそれらの組み合わせの「美しさ」に感覚をとぎすます
コントロールの行き届いた《アトレ》グリッサンドや、突然のクラリネットのロングトーンが、一つの境目となり、次のセクションに入ったような気になる。
シモノヴィッチは初演者。トランペットやトロンボーンのぶりっとした鳴り方、弦楽器のトレモロ、音色によって、かなり性格が変わるし、楽器のアタックというのも交錯している。
クラリネットのロングトーンが一つの節目になっているのは確か。ロングトーンがこれ以降増えている。打楽器が入ってこない。性的な展開、音色がものをいうように。トロンボーンのフラッターが印象的。それで沈黙。
音を重ねるようになってくる? グラデーション的な変化。少しずつエネルギーを増し、グリッサンドも戻ってくる。がっちりとした音の構築を感じさせる作品であり、アーティキュレーションも、発音も明瞭だ。
2曲目は1曲目とちがって、静寂やなめらかさが際だっている。このなめらかさに、聴きいってしまうところがある。
《ヘルマ》…高橋悠治の噛みつき襲いかかる感覚にどうしてもぐいと引かれてしまう。
《ポラ・ティ》…は他の作品に比べ、ドラマ的要素に富んでいる。打楽器の打ち込むようなリズムと、淡々と同音で歌う少年合唱が、突き放したような、それだからこそ持つ、冷めたような、それでいて力強い訴えを持っている。
クセナキスによって開発された統計学的なプログラムをつかって作られたIBM7090による計算を、ここで録音しているシモノヴィチによって1962年に行われたパリ・IBMインスタレーションでリアライズされた。
統計学・数学は、もちろんクセナキスの作品理解の一助になるのだろうけれど、とりあえず虚心に耳を傾けて、音の蠢きを体感せねば、それらも無意味であろう。彼がギリシャで過ごした経験が、少なからずとも自叙伝として彼の音響に反映していることは、おそらく間違いないのだから。
クセナキスの評価は、おそらくこのCDに収録された音源がLPレコードで発売されたころとは、また違っているのかもしれない。
クセナキス作品を聴く上で、いわゆる「クラシック」の音感覚が邪魔になることは間違いないのではないか。音群を語っているということ自体、一定時間に空間に放たれる音高と、複数であればそれらの組み合わせの「美しさ」に感覚をとぎすます行為は、与えられた美意識に身を預けてしまうことにもなりかねず、作品をもって新しい美意識を覚醒しうる可能性を、自ら閉じてしまうことになりはしないだろうか。
もちろん僕自身の中に、19世紀までに培われた音の「美しさ」なるものを肯定する気持ちはあるが、それはそのまま、新しい聴き方・新しい表現を否定することにもなるまい。いずれにせよ、耳を開くことは、「映画音楽のような」と揶揄される、クラシック愛好家に受ける作品に対しても行われるべきではないかという主張も、これまた当てはまる。
となると、ジョン・ケージが嫌いなベートーヴェンやミューザックも、好き嫌いはともかく、存在を否定することはできなくなってしまうのだろうか。
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