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びんささらの、片方の持ち手から衝撃を加える事によって振動が反対側まで伝わる奏で方を見て、高校の物理の波動の授業で使っていた「水平すだれ式波動実験器」を思い出しました。ですがよく考えれば縦波の定常波の方がびんささらの奏で方に近いと気づきました。一度鳴らしてみたいです。
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思わずYouTube検索してしまいましたとさ…。
2019年以来、しばらく担当していなかった「日本音楽通史」の授業をやっていて、月曜と木曜(週2回授業なのです)は、こちらの『勧進帳』を観ています。学生にとっては、やはり言葉が難しいようです。一応漫画で解説した資料も用意はしていますが、聴いて、どんなことを言っているのか、大まかに「翻訳」して、ようやく分かってくるようです。
歌舞伎を観に行く学生でも、イヤホンガイドを使っているらしいのですが、僕は歌舞伎座で観た時は、イヤホンガイドは使っていませんでした。でも何となく付いていけるのでは? とも思ったりします。『勧進帳』については、2012年から19年まで毎年取り上げていたこともあって、僕も大まかなことは説明できるようになっているような気がします。
能は『船弁慶』を観ました。学生にはあらすじをまとめてくる課題を出しているのですが、やってくる学生の場合、内容の理解が格段に上がるそうです。やはり予習は大切なのですねえ。
小田玲:近藤譲《林にて》における洗練された曖昧さの構造
近藤譲の《林にて》は、僕自身、アメリカの授業内で口頭発表をしたことがあるので、若干馴染みのある曲だったりします。その時は、発表者が否定的に取り上げた「ピッチクラス」が分析に有効なのではないかという意見が指導教員 (Jane Piper Cledinning) からありました。実はこの意見自体は、いまでも案外有効なのではないかと思っっています。すなわち「直感」的に、理論的背景ではないところから生まれてくる音の抽出を、ある程度機械的に調べて見えてくるものがあるんではないかなあということです。作曲者もピッチクラス・アナリシスは否定するのでしょうけれど…。特に全体を見据えた分析をする必要はないでしょうし、それが有効でないというのは、発表者と同意するところ。そこはシェンカーとは違いますよね。
長谷川由依:1930〜50年代日本の作曲家による音楽創作と「民謡」
「俚謡」が「民謡」となった背景には、やはり国家主義的な考え方があるんだろうなあと思わされました。もちろん "Volkslied"の訳語として誕生したということもあるのでしょうけれど…。確かに戦前は放送局中心・戦後は作曲家中心の考察になっているという司会者からの指摘はごもっとも。でも今後が楽しみといえるのかもしれませんね。
日本音楽学会、全国大会にウェビナーで参加しました。ミッション系女子学校、高等女学校教科書の話は、やっぱり僕のいまの勤務先の影響で、これまで関心を持ってなかったのですが、俄然興味深く拝聴。自校誌と同窓会からの情報が前者では研究の端緒になり得るということが感じられ、フェリスでも調査が可能なんだなあという思いを持つことになりました。
後者についてはオーディエンスからの質問で、小学唱歌の唱歌のあり方と違い、特にその背後にある音楽観というのも、考えてみれば面白いのではないかと思いました。
そのほか後者の発表のまとめとして、レコード・ラジオの普及により鑑賞系が増えたというのは妥当な結論とは思いつつ、学校外の生演奏による音楽活動も大切なのではないかという思いも持ちました。特に軍楽隊・映画の楽隊などは、メディアを介さずとも生で聴けた音楽なのですし、例えば僕が以前調査をした富山では大正時代になると学校にピアノが入ったということで、地域住民が体育館やら講堂に大挙して音楽会に行った記録もあるので、そういった方面でも研究なども必要なんだろうなあ、と思いました。富山でもそうなのですから、首都圏でも「生」で聴けた演奏会、民間の音楽家によるものが、きっと多くあったのだろうなあという気持ちを持ちました。
一昨日、フェリス緑園キャンパスにおいて、新しい仕事のお話のための打ち合わせをしました。それについては、また改めて発表する機会があれば…。
今日は妻とコストコ座間倉庫店へ行ってまいりました。行き帰りの車の中で、iPhoneに入れた音楽を聴きながら。その中に、以下がありました。
Tchaikovsky, Concerto for Violin andOrchestra ni Dmajor, Op. 53 (Live from hte Prague Spring Festival1972) I. Finale. Václav Hudeček Alegro vivacissimo. Czech Philharmonic Orchestra; David Oistrakh, conductor. Hudeček: Il Giardino di Musica. Supraphon SU3330-2031.
→Naxos Music Library
今頃…と言われそうですが、最近フデチェックの録音にハマっております。この軽妙さ、しかしながらしっかりと伝えられる主張といいますか。僕の波長に合うんですよね。他の曲も多彩で、バッハ、ハイドンなんかはいまのピリオド派とは違うことが分かってしまっても、何となくついていきたくなってしまうんですよね。
僕は上記CDをそれなりに苦労して入手しましたが、Naxos Music Libraryでもフツーに聴けるんですね…。上記チャイコに関しては、ちょっと音がしゃりしゃりしてますが、そこは元ソースのせいなのかな?(→Naxos Music Library)
Il Giardino di Musica、すなわち「音楽の庭」(?) と題されたCDを入手した理由なのですが、もともとはドヴォルザークの《ユーモレスク》(クライスラー編) を聴きたかったのです。フデチェックの《ユーモレスク》は、僕の音楽経験を大きく左右したNHK-FMで出会ったもので、なんとも言えないニュアンスに富んだ演奏なのです。ずっと探していた演奏のCDがあることを知って(と思っていた…)飛び上がるほどうれしかったのですが、実はこのアルバムに収録されたのは、むかしFM放送で聴いたのとは別の録音でした。このアルバムのために特別に録音されたものなのだそう。僕が聴いたのよりも、あえてネガティヴに書くと「弾き飛ばす」感じがするものでした。いや、これはこれで良いのですが、やはり僕が聴きたかったのはこれじゃない、ということだったりします。
CBSソニー SOCI 89〜90
レコード2枚組。ナレーションの台本が、このレコードのために作られたっぽいのか、外国の小学校の先生に扮したおじいさん?が教室の子どもたちに授業をする体裁の設定になっている。いきなり学校の鐘の音から始まり、授業にいつも遅刻する「レナード」(2枚めに登場するバーンスタインのつもり?)に話しかけたり、ブリテン本編に入る前にドタッ(効果音入り)とつまづいたり。ちなみにこの《管弦楽入門》の演奏は演奏会用のバージョンなので、ナレーションが演奏部分にかなりかぶさったりしているが、ナレーション自体はとても面白い。(ただ最後のフーガでは、クラリネットが入るくらいまでおしゃべりがかぶさるので、これは曲そのものを聴くという人には向いていないかも)。それにしても2枚組のうち、このブリテンだけがバーンスタイン/NYPじゃなく(バーンスタインの録音もあるはずですよね…)オーマンディ/フィラデルフィアなのも面白い。ちなみに教室の中にはアダム(りんごを食べる)や狼を捕まえに教室を出ようとするピーターという生徒もいるらしい。
2時間目?が《ピーターと狼》ということなのだと思うが、新鮮味はブリテンほどはないような気がした。誰かが動かした「こしかけ」に先生が座れなくてドタッと尻もちをつくとか、最後に先生が狼の鳴き声を真似して…というギャグはある。
音楽も楽しいけれど、僕的にはこの語りが秀悦かな。《動物の謝肉祭》や《魔法使いの弟子》は、また改めて聴いてみたい。
ところで僕がなぜこの録音を知ったかというと、中学の頃、NHK-FMの午後のクラシックの時間に《青少年のための管弦楽入門》を聴いたからだと思う。ということは、夏休み・冬休み・春休み中か?
さらにさかのぼって、この曲に出会ったのは、やはり中学の音楽の時間で、その時の盤はナレーターが小山田宗徳、ロリン・マゼール指揮フランス国立放送管弦楽団だった(曲にはいる前にオーケストラのチューニングの音があって、声にちょっとエコーがかかっていたのがちょっと怖かった印象がある)。先生の持っているレコードが古く、指揮者の名前は「ローリン・マーツェル」と書かれていたように思う。
東京ブラス・アンサンブルといえば、『ブラスアンサンブルの楽しみ』という3枚組のレコードも出していて、やはり僕の中学時代、学年1つ下の後輩から借りました(しかし彼、東フィルの首席で、いまは洗足の教授なのね…。すご…)。そちらのBOXも、その後中古で入手はしたものの、現在は富山の書庫にあります。今度行ったらデジタル化してこよう。
ということで、『デジタル・マーチ』を入手した理由は、とても個人的なものです。中学校の頃、意識的に「この日をエアチェックの最初の日としよう」と意識したカセットテープに記録されているのが、この音源がかかった『ブラスのひびき』だったんですね。確か1981年。家のTDKのカセットには正確な日付が記されているはず。当時のテーマ音楽はダブル・パワー・ブラス・オーケストラの《素晴らしきヒコーキ野郎》でございました。
最近自分の音楽的なルーツはどこにあるのかな、みたいなことに興味を持っていて(年齢的なことかと言われそうですが、自分的にはそれよりも、自分の音楽観の軸をしっかりしたいという方向性かな?)、元々はかなりライトなリスナーだったんじゃないかな〜と思うようになりました。まだ高校の吹奏楽曲経由で「現代音楽」に出会う前ですね…。
備忘録:
ヤコブ・ミュールラッド:《REMS》--「ホーリー・ミニマリズム」という感じはあまりしなかったけど、軋む・擦れる感じのする作品かな。「ポストミニマル」と考えれば、なるほどドラマ的要素はあるけれど、ジョン・アダムズ以降急速にしぼんでしまったアメリカの前衛とは違う、ヨーロッパの流れに感心したり。
オルガ・ノイヴイルト:《オルランド・ワールド》--オペラ映像は見逃してしまっているので、オペラとの比較はご容赦。僕の席は1階中央列、やや下手寄りだったけど、歌手の声があまり聴こえず。ただ "I need company" というラインは聴こえたので、歌詞のページを開いて聴いたら、その後は何となく追えた。うん、歌詞があった方が「カコフォニック」な音楽の内容は、わりとすんなり飲み込める印象。フェリスにいるためか、昨年度の卒論にクララ・シューマンを扱った学生がいたためか、いろいろ考えさせられる内容ではあった。途中ポピュラー音楽っぽい引用があったのかな、というのは分かった。休憩時間に解説を読んで、なるほど〜という感じ。
ノイヴイルト:《旅/針のない時計》--このコチコチ音はどこから? という感じが面白かった。ちょっと舞台の後方の詳細は分からず。いろんな意味で多層的な作品かなあと。ちょっとアイヴズっぽいところがあったようにも思えたけど、やっぱりヨーロッパであり、ユダヤでありということになると、アイヴズとは技法的に似て?ても出てくる音は全くちがうね。ルーマニアのどこか? なのかしらと思ったけど、ユダヤだから、きっとクレズマーなんだろな、と思いつつ聴いていた。情報量が多い音楽ともいえるのかも。Pluralismといっても、いろんな形がありそう。
スクリャービン:交響曲第4番《法悦の詩》--3曲目を終わって手元の腕時計みて「えっ、これからスクリャービンやるの? マジ?」という感じだったが、これまでグチャッとした音響の音楽に触れてきたからか、テクスチャーの明晰さに驚く。前3曲がなかったら、スクリャービンはもっと濃厚に聴こえたのではないかな、と思ってみたり。なぜか頭の中が「現代音楽のコンサート」から「定期公演モード」になったのも面白かった。いや、これも聴き応えありましたよ。
オーケストラのみなさん、大変なコンサート、ありがとうございました。
ビクターから発売された3枚組で、資料的には貴重なレコードとされている。残念なのは、なぜか録音にエコーがかかっていること。確かこれはフィールドロックオンのはずなのに、なぜエコーをつけたのだろうか。フィールド録音のはずなので、変な感じがする。「音楽的に聴ける」ようにするため??? 無加工の録音の方が好きなんだけどなあ。Ocoraレベルを求めている訳ではないが、エコーはない方が、人の声の生生しさが伝わるような気がする。全体的には、素朴な歌の方よりも、楽器の音楽の方が楽しめたかもしれない。またケーンあたりの音楽を聴くと、やっぱり(ラオスとか)タイだなあと思ったりもする。ただ「日本音楽の源流」というコンセプトをどのくらい感じられるか、というと、なかなか難しい。確かにケーンは笙の仲間ではあるが…。ペンタトニックというところは共通ではあるが…。やはり物理的な距離に由来するものなのか。
ちなみにこのレコード、かつて東川清一先生の研究室にも置いてあった。内田氏から送られてきたものだったのかな?
参考→Soa Amata Opening Dance of a Fiafia
ヤフオクでポリネシア音楽のレコードを何となく買ってしまったうちの1枚。今年度から「諸民族の音楽」を担当するということになって、図書館に置いてある資料として少ない地域にどうしても目が行ってしまったということかもしれない。しかし、このFestival music from Western Samoaという1枚のA面2曲目のこの曲がめちゃくちゃ気に入ってしまったのだった。突然のバタンという音、叫びなんかも素晴らしい。YouTubeには、このときのリハーサル動画っぽいものも残っていて ((Western) Samoa Excerpt for 1976 South Pacific Arts Festivalhttps://www.youtube.com/watch?v=yoyRa6jZnpQ) 、それまた生々しいのだ。その動画によると、この録音は1976年のSouth Pacific Arts Festivalにおけるステージ・パフォーマンスだったそうで、メンバーは全員教師ということらしい(この教師というのが、このコミュニティの初等・中等教育の教師という意味なのか、あるいは伝統芸能を教える教師ということなのかについては、僕もよく分かっていない)。また、西サモアは、別の島からの移住してきたという一般的な学説?を受け入れず、サモア人はサモアに源流があるという立場を取っていたらしい。特に酋長(マタイ)の権力を尊重しているという。音楽についても、西洋の楽器の影響を配し、木製の太鼓を木のマットでくりみ、それを棍棒で叩く打楽器のみを使うようだ。そのシンプルな伴奏に乗せて、体を叩いたり、手拍子を多用している。その一方で、美しいハーモニーは保っているということのようだ