2010年6月30日水曜日
執筆活動報告 2010年6月 (3)
スタイルノートさんのサイトで書いているブログ「ほくりく音楽アラカルト」に「【第8回】演奏会ウォッチング:富山クラフト・オーディオ・クラブ主催 安田紀生子 (ヴァオリン)、高森静香 (ピアノ) デュオ・リサイタル」が掲載されました。
執筆活動報告 2010年6月 (2)
『レコード芸術』の「海外盤試聴記」、7月号は、以下のディスクです。今回は、アメリカものが1つ、その他が2つということで、初めてアメリカもの以外のウエイトが重くなった組み合わせになりました。
・ペレーニ チェロ・リサイタル J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第 3 番ハ長調 BWV1009、ブリテン:チェロ・ソナタハ長調 Op.65、ブラームス:チェロ・ソナタ第 2 番ヘ長調 Op.99、ショパン:チェロ・ソナタト短調Op.65より第3楽章 ミクロシュ・ペレーニ(チェロ)、デーネシュ・ヴァーリョン(ピアノ) Wigmore Hall Live WHLIVE0035<録音=2009年1月>
・ショパン:ピアノ作品集 (夜想曲第14番嬰へ短調Op.48‐2、スケルツォ第1番ロ短調Op.20、夜想曲第5番嬰ヘ長調Op.15‐2、幻想即興曲嬰ハ短調Op.66、スケルツォ第3番嬰ハ短調Op.39、夜想曲第13番ハ短調Op.48‐1、スケルツォ第4番ホ長調Op.54、夜想曲第20番嬰ハ短調(1830)遺作、スケルツォ第2番変ロ長調Op.31、夜想曲第17番変ニ長調Op.27‐2 エリザベート・レオンスカヤ (ピアノ) MDG 943 1558-6<録音=2008年6月>
・ザイモント:管弦楽作品集 (《クロマ:ノーザン・ライツ》 (1985)、交響曲第2番《私を忘れないで》(2000) から<ゴースト>、<弦楽のためのエレジー>、管弦楽のための《スティルネス:詩曲》(2004) ロベルト・マレシェク(ヴァイオリン)、ジョゼフ・スコレパ (ヴァイオリン)、カーク・トレヴォー指揮スロヴァキア・ナショナル交響楽団 Naxos 8.559619 <録音=2008年9月>
・ペレーニ チェロ・リサイタル J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第 3 番ハ長調 BWV1009、ブリテン:チェロ・ソナタハ長調 Op.65、ブラームス:チェロ・ソナタ第 2 番ヘ長調 Op.99、ショパン:チェロ・ソナタト短調Op.65より第3楽章 ミクロシュ・ペレーニ(チェロ)、デーネシュ・ヴァーリョン(ピアノ) Wigmore Hall Live WHLIVE0035<録音=2009年1月>
・ショパン:ピアノ作品集 (夜想曲第14番嬰へ短調Op.48‐2、スケルツォ第1番ロ短調Op.20、夜想曲第5番嬰ヘ長調Op.15‐2、幻想即興曲嬰ハ短調Op.66、スケルツォ第3番嬰ハ短調Op.39、夜想曲第13番ハ短調Op.48‐1、スケルツォ第4番ホ長調Op.54、夜想曲第20番嬰ハ短調(1830)遺作、スケルツォ第2番変ロ長調Op.31、夜想曲第17番変ニ長調Op.27‐2 エリザベート・レオンスカヤ (ピアノ) MDG 943 1558-6<録音=2008年6月>
・ザイモント:管弦楽作品集 (《クロマ:ノーザン・ライツ》 (1985)、交響曲第2番《私を忘れないで》(2000) から<ゴースト>、<弦楽のためのエレジー>、管弦楽のための《スティルネス:詩曲》(2004) ロベルト・マレシェク(ヴァイオリン)、ジョゼフ・スコレパ (ヴァイオリン)、カーク・トレヴォー指揮スロヴァキア・ナショナル交響楽団 Naxos 8.559619 <録音=2008年9月>
執筆活動報告 2010年6月 (1)
『音楽現代』7月号 (Vol. 40, No. 6) に、金沢で行われた「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』音楽祭〜ショパン、ジェネラシオン1810」のレポート記事/音楽評を書きました。4ページにはカラー写真と導入文、120〜123ページにかけては、5つのコンサートの短評になります。ご笑覧賜れば幸いです。
扱った公演数が多いこともありますが、この雑誌に書いた評論では、もっとも長いものになります。
同じく『音楽現代』7月号の76〜77ページに、「ストラヴィンスキー『3大バレエ音楽』を除く主要作品」と題して、10曲の紹介文を書きました。一応大体の目安として、聴きやすく初心者向け→マニア向けといった順番にしたつもりです。これは編集の方からのご提案でありまして、もともとは、初級・中級・上級5曲ずつ、あるいは全体で10〜15曲で行くということでした。
2010年6月29日火曜日
蒸し暑い日が続きますね
不快指数が高そうな日々が続きます。お元気ですか?
現在富山のローカル音楽史に取り組んでおりまして、ささやきながら論文の形にまとめております。「唾つけ」といった感じですが、それでもなかなか、調査となれば骨が折れるものでして、特に明治時代の新聞などは、音楽関連の記事がないことが多く、マイクロフィルム・リーダーをひたすら眺めることになります。でも目が痛くなってしまうので、私の場合、1日2時間が限界のように思います。幸い、戦前に富山スバル会という、おそらく文化団体のようなところが発行していた雑誌に、年表形式による「富山芸術文化史」なる連載があり、そこからある程度、目星はつきます。
とはいったものの、この記述も、該当する年代の新聞に照らし合せないといけないので、ちょっとばかし時間が必要になります。またこの連載がカバーしているのは明治25年から40年代の最初の方だけなので、例えば大正時代となると、さらに雲をつかむようなことになるんじゃないかと心配しているところです。
ご存知の通り、富山も空襲に遭っているので、残っている資料というのは、それほど多くないと思うんですよね。まあ、やれるところまでやってみるということでしょうか。
2010年6月19日土曜日
近況など
昨年から今年というと、いろいろありました。昨年の10月から今年の2月まで、大学の1年生を対象にした、教養教育の「音楽」の授業をやりました。大学で教えるというのは、これが初めての経験となりました。内容なこちらで自由に決めていいということで、クラシックを中心にしながらも、かなり広範な音楽ジャンルを扱い、リズム、旋律、テクスチュア、音楽と映像、音楽と社会といった、音楽を成立させている要素や、外的要因について話しました。
といっても、あんまり堅苦しくないように心がけたつもりです。mixiには、一部扱った作品の一部なども掲載してあるのですが、例えば 6/8拍子のような、1つのビートを3つに分ける複合拍子の説明に『水戸黄門』のオープニングテーマを使ったり、シンコペーションとバック・ビートを説明するのにディープ・パープルの《スモーク・オン・ザ・ウォーター》のイントロ部分を使うといった感じです。
また授業では、学生が主体的に、出席票にコメントを書いてくれました。それは「授業が速すぎる」といった、こちらの問題点の指摘もあるのですが、授業で発展的に扱えるようなものもあって、とても面白かったです。「質問は?」といっても、たいてい挙手がないのが普通のようですが、コメントにはいろいろ質問が書いてあり、それを次回の授業の冒頭に使ったりして、僕としても、とても刺激になり、勉強になりました。
うれしかったのは、テストの答案に「音楽は専門ではないけれど、とても興味が持てました」というコメントが書いてあったこと。リップサービスだったとしても、これは僕が目指している方向性とバッチリ合っていたので、本当に感激しました。
執筆活動についても、毎月それなりに書いておりますので、また改めて、リストアップさせていただこうかと思います。
ごぶさたしております
ブログというのも、次第に古いプラットフォームになりつつあるのか、mixiやらツイッターやら、新しいものが次々と出てきて、なんとなく流されています。ただmixiでもTwitterでもFacebookでも、それぞれに新しい人との出会いがあり、楽しみが広がってきています。今日Twitterでは、「憂き世の日々に埋もれて、たまには温泉へ」というブログを運営しておられるkabumasaさんが、私のホームページやブログを読んでくださって、コメントをくださいました。そして、私のホームページをさっそくブックマークしていただきました。
kabumasaさんのブログは、時事問題を中心に注目しておりまして、そんな方からコメントをいただけるのは、大変光栄です。特に最近はブログやサイトの更新ができてないだけに、励ましの一言をいただき、しばらく書いてないブログもやってみようかな、と思い始めた次第です (このように) 。
ところでスタイルノートさんのところで細々とつづけている「ほくりく音楽アラカルト」というコーナー向けの原稿を、先日お送りした次第です。そのうちサイトの方にも反映されてくるのではないかと思いますので、そちらの方も、どうぞよろしくお願いいたします。
2010年4月20日火曜日
ショスタコ最終回
ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲全曲演奏会 最終回 大澤明弦楽四重奏団 2010年4月20日、北日本新聞ホール 午後7時開演。
ショスタコーヴィチ最終日である。雨の日。前回もこんなぐずついた天気だったような気がする。
富山でやるのに、いや北陸でやるにしてもタフな企画であるため、どれだけ人が入るのかっていうのはあるけれど、実は経費として一番大変なのは、ホール使用料だったりする。ギャラとか著作権料というのもあるのだけれど。
今日、僕はステージマネージャーみたいなことをやっている。といっても、即興で考えた会場アナウンスをやったり、裏方に演奏者登場のタイミングを知らせたりするだけで、基本的に舞台袖で、小さなテレビモニターを見ながら演奏を楽しんでいるという感じだ。
6番は、冒頭からとても手堅いテンポと進め方。丁寧な弾き込みだ。もちろんショスタコーヴィチならではの荒削りのフレーズは容赦なく演奏されるけれども、第1楽章にしても、「そうそう、その動機が大切なんだよね」という動機をヴィオラが展開部で美しく奏でていたのが印象的だった。
第2楽章は、透明な響きが全体を覆うような印象で、それはショスタコーヴィチの音楽に潜む、華奢な部分を示すことでもあるのだけれど、一見相反するような無邪気な推進力とのバランスを楽しんだ。
しっとりと奏でられるチェロのパッサカリア主題にのせて、ほかのパートが滔々と歌い継いでいく第3楽章は、ショスタコーヴィチの音楽に、多くの聴衆が期待する、心の奥深くに訴える、切々とした訴えがあり、こちらが積極的に聞き入れるほどに、しみいる音楽といえる。
中間部に強く訴える箇所もあるけれど、どこかしら幸せ気分のあふれる第4楽章は、ショスタコーヴィチにしては珍しい中庸を感ずる表現であり、抑圧のない自然な音楽を、うまく引き出せていたと思う。
1曲目の後、舞台袖で、軽くチューニング。ちょっと湿度が気になる様子? 松井さんの「行きますか」のかけ声で、舞台に上がる4人。第9番だ。
第2楽章の瞑想的な流れから、ギャロップの第3楽章。これも、とっても大切に弾いている印象。もちろん凄みを聴かせたり、グリッサンドもあって、ヴィヴィッドさにも飛んでいて、これは会場で聴かないと分からないだろうなあ。舞台袖のテレビと必要最小限なスピーカーから漏れ伝わる音を聴きながら「うれやましー」と思いながら、こうやって演奏中にポメラを打てるのもいいなあ。
しかしまあ、第4楽章はノリノリで良かったなあ。舞台袖では「クールダウン、クールダウン」の声。石黒さんは「15番は精神的に大変」とのこと。確かにそうですよねー。
チェロの大澤さんが、「演奏者がお辞儀をして座ってから照明を落としてほしい」というご要望。調整室に伝える。前半は、確かに普通の照明だったけれど、演奏者のみにスポットライトが当たるので、雰囲気が抜群に出てる。いいぞー。なるほど、僕は気がつかなかった、そういう演出も可能なんだと。
地元の新聞社の文化部の方から、後ほど、後半の演目、第15番が演奏されたか、確認をさせてほしいとのことで、私の携帯番号をあげた。明日の朝刊に「イベント」開催のベタ記事を出すのに間に合うには、演奏会の途中で帰らなければいけないからだ。本当ならば、きちんとした批評家が、この日の演奏について伝えるべきだと思うのだけれど、これが地方の現状だと考えてもらった方がよいだろう。
僕などは、ショスタコーヴィチの音楽を聴くと「社会主義リアリズムの功罪」というのが分からなくなることがある。自由な表現の抑圧という、ひどく単純化された、ある意味では、米国の「反共」の態度にも近いその見方では、とうていくみ取ることのできない深淵さをたたえたショスタコーヴィチの音楽、僕は以前、「社会主義リアリズムは何ら良きものを生み出さなかった」と、文学・現代思想を研究されている方から教わったのであるが、こと音楽に関していえば、あのショスタコーヴィチの傑作群があるではないか、と堂々と反論できてしまえそうなのである。
ショスタコーヴィチ最終日である。雨の日。前回もこんなぐずついた天気だったような気がする。
富山でやるのに、いや北陸でやるにしてもタフな企画であるため、どれだけ人が入るのかっていうのはあるけれど、実は経費として一番大変なのは、ホール使用料だったりする。ギャラとか著作権料というのもあるのだけれど。
今日、僕はステージマネージャーみたいなことをやっている。といっても、即興で考えた会場アナウンスをやったり、裏方に演奏者登場のタイミングを知らせたりするだけで、基本的に舞台袖で、小さなテレビモニターを見ながら演奏を楽しんでいるという感じだ。
6番は、冒頭からとても手堅いテンポと進め方。丁寧な弾き込みだ。もちろんショスタコーヴィチならではの荒削りのフレーズは容赦なく演奏されるけれども、第1楽章にしても、「そうそう、その動機が大切なんだよね」という動機をヴィオラが展開部で美しく奏でていたのが印象的だった。
第2楽章は、透明な響きが全体を覆うような印象で、それはショスタコーヴィチの音楽に潜む、華奢な部分を示すことでもあるのだけれど、一見相反するような無邪気な推進力とのバランスを楽しんだ。
しっとりと奏でられるチェロのパッサカリア主題にのせて、ほかのパートが滔々と歌い継いでいく第3楽章は、ショスタコーヴィチの音楽に、多くの聴衆が期待する、心の奥深くに訴える、切々とした訴えがあり、こちらが積極的に聞き入れるほどに、しみいる音楽といえる。
中間部に強く訴える箇所もあるけれど、どこかしら幸せ気分のあふれる第4楽章は、ショスタコーヴィチにしては珍しい中庸を感ずる表現であり、抑圧のない自然な音楽を、うまく引き出せていたと思う。
1曲目の後、舞台袖で、軽くチューニング。ちょっと湿度が気になる様子? 松井さんの「行きますか」のかけ声で、舞台に上がる4人。第9番だ。
第2楽章の瞑想的な流れから、ギャロップの第3楽章。これも、とっても大切に弾いている印象。もちろん凄みを聴かせたり、グリッサンドもあって、ヴィヴィッドさにも飛んでいて、これは会場で聴かないと分からないだろうなあ。舞台袖のテレビと必要最小限なスピーカーから漏れ伝わる音を聴きながら「うれやましー」と思いながら、こうやって演奏中にポメラを打てるのもいいなあ。
しかしまあ、第4楽章はノリノリで良かったなあ。舞台袖では「クールダウン、クールダウン」の声。石黒さんは「15番は精神的に大変」とのこと。確かにそうですよねー。
チェロの大澤さんが、「演奏者がお辞儀をして座ってから照明を落としてほしい」というご要望。調整室に伝える。前半は、確かに普通の照明だったけれど、演奏者のみにスポットライトが当たるので、雰囲気が抜群に出てる。いいぞー。なるほど、僕は気がつかなかった、そういう演出も可能なんだと。
地元の新聞社の文化部の方から、後ほど、後半の演目、第15番が演奏されたか、確認をさせてほしいとのことで、私の携帯番号をあげた。明日の朝刊に「イベント」開催のベタ記事を出すのに間に合うには、演奏会の途中で帰らなければいけないからだ。本当ならば、きちんとした批評家が、この日の演奏について伝えるべきだと思うのだけれど、これが地方の現状だと考えてもらった方がよいだろう。
僕などは、ショスタコーヴィチの音楽を聴くと「社会主義リアリズムの功罪」というのが分からなくなることがある。自由な表現の抑圧という、ひどく単純化された、ある意味では、米国の「反共」の態度にも近いその見方では、とうていくみ取ることのできない深淵さをたたえたショスタコーヴィチの音楽、僕は以前、「社会主義リアリズムは何ら良きものを生み出さなかった」と、文学・現代思想を研究されている方から教わったのであるが、こと音楽に関していえば、あのショスタコーヴィチの傑作群があるではないか、と堂々と反論できてしまえそうなのである。
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