2025年8月27日水曜日
ノーマン・デロ・ジョイオ:《ルーブルからの風景》:リハーサル風景と通し演奏
ポール・クレストン:交響曲第1番 第1楽章・第3楽章 (それぞれ冒頭部分のみ) (演奏者不明) (米国戦争情報局)
Contemporary American Music Series No. 21: Paul Creston: Symphony No. 1, Opus 20, First Movement (Beginning) and Third Movement (Beginning). Office of War Information Overseas Branch No. 13-3157 (78 rpm).
2025年8月21日木曜日
ノーマン・レダーマンとゲイリー・バーク:『ステレオ・シダの蘭オーケストラ』(45回転ドーナツ盤)
珍しいレコードを入手しました。ちなみにデイヴィッド・コープの『現代音楽キーワード事典』 (春秋社) の p. 205 に取り上げられています。
植物は知性を持っているのだろうか?人間は植物とコミュニケーションを取ることができるのだろうか? 誰にも確かなことは分からない。
このレコードのA面は、インドのアザレア、フィロデンドロン、ボストン・タマシダ、アマリリスという4種類の植物の複雑な電気化学活動を記録する非科学的な試みである。4つの植物は上記の順序で聴かれる。これらの植物の「音 sound」は、国立植物園で特別に構築された「植物アンプ plant amplifier」を使用し、4チャンネルの業務用録音機の別々のトラックに録音された。B面では同じ録音を使用しているが、各植物の信号が巨大な電子音楽シンセサイザーに送られ、その結果がミュージック・コンクレートとして提示されている。音楽家と植物の人間的波形の両方 がシンセサイザーの出力を制御している (Both the human wave form [from?] musician and the plants control the synthesizer's output) 。このレコードが、植物のステレオフェニックな世界への想像力と感性を刺激することを願っている。
2025年8月20日水曜日
2025年8月15日金曜日
カザルス:《国際連合賛歌》
実家に置いてあるビデオを帰省時に少しずつデジタル化しています。これもその一つ。《鳥の歌》の映像はYouTubeでも観られるのですが、意外と《国際連合賛歌》をカザルス自身が振った映像がないことに気づきました(→と思ったら、3年前にアップされていました)。この映像は大学院時代にとある先生からお借りしたビデオテープに入っていたもので、おそらくNHKで放送されたものかと思われます。冒頭に4:10の時刻が表示され「国際連合総会議場で録画」とされています。個人的には中間部のオーデンの詩がちょっと怖かったのを覚えています。とてもインパクトがあります。以下、その中間部からの字幕をそのまま転載してみます。もちろん音楽による戦意高揚やプロパガンダが過去にあったことを認めつつ、やはり私たちは平和の歌を紡いていきたいものです。
人みな言葉に心せよ
うそをつき
平和をいいくるめ
いくさのときには
邪悪が正しきことを語り
偽りの約束が結ばれる
なれど 歌は真実
平和の歌を模範とせよ…
2025年8月3日日曜日
ハリソン/フェルチアーノ作品 (ガムランを使った作品2曲収録)
Lou Harrison: Gending Pak Chokro (A2).
Cambridge Records CRS 2560 (LP)
留学時に聴いたレコードを振り返ってみたいと通販で購入した1枚です。ジャケットの真ん中に横一線の紙の剥がれがあって残念なのですが、盤そのものはとても質が良く、音楽を楽しむという点ではうれしいですね。
フェルチアーノの《グロッソラリア Glossolalia》はピッツバーグのセント・ジョン・フィッシャー教会に新しいオルガンが献呈される際に、ロバート・スノーから委嘱を受けて作曲されたものだそう。この作品だけはガムランとは関係がなく、テープ、打楽器、バリトン、オルガンのための作品。テクストは旧約聖書の詩編150編ということだから、とても祝祭的な音楽…になるのかと思ったのですが、シリアスな感覚の無調の響き。テープは神秘的な音が時々。
ハリソンの《Gending Pak Chokro》は、むかし所属していたフロリダ州立大学の図書館で聴いたことがあったのですが、レコードを購入してじっくり聴いてみると、ルバーブっぽい音も入っているように聴こえました(意外と覚えていないものです)。でも写真にも解説にも言及はないなあ。スリンの音はもっとはっきりと聞こえます。途中でアップテンポになるところが素敵。テープが一部ドロップアウトするところがちょい残念。おそらくマスターからなんでしょう。
フェルチアーノの《In Celebration of Golden Rain》は、ガムランとオルガンの組み合わせ。不思議な感じ。ガムランの音色は使っているのですが、イディオマティックじゃないというか。オルガンにポツリポツリ合わせたり、別々に鳴らしたり…。
ライヒ:プロヴァーヴ (1955)、ナゴヤ・マリンバ (1994)、シティ・ライフ (1995)
→アマゾン
1995年の《プロヴァーヴ》は、清らかなソプラノのカノンが冒頭から印象的。ボーイ・ソプラノが歌うと、一段と敬虔な感じが醸し出されるのではないだろうか。その後は、柔らかなオルガヌム(中世の宗教ポリフォニー)の印象。ライヒがペロタンに興味を持っていたことを思い出した (著作集を除いたら、実際にインスピレーションにしていたということのよう)。ただマリンバが入るとやっぱりライヒ、ということになるのかもしれない。ということで、その後はビート (パルスとは言い難い) の中に挿入される「変拍子」 であり、様々な具体音が美的オブジェと言うよりは、音に付随する。文化的文脈を伴って、器楽演奏に織り込まれていく。
《ナゴヤ・マリンバ》(1994) は初期の響きに類似するところはあるが、最小限主義ではなく、印象的ドラマ・ 表現に手段の1つとして使われている。「初期ライヒ風」音楽とでも言うべきか。あるいは開き直ったポピュラー音楽なのだろうか。
《シティ・ライヒ》(1995) は、かつて苦労して取り込んでいた日常音を抽象的なオブジェとして音楽作品にした「ミュージック・コンクレート」が、いまやサンプリングに手軽にできるようになった…ということのようだが、むしろタイトルからして、音のオブジェというよりは、その音がもともと持っている文化的文脈をそのまま(主に使用されているコードによって醸し出される)「ライヒ風」音楽に混ぜているということになるのかもしれない。第3部は1980年代のカール・ストーンみたいだ。(2004.9.7執筆、2025-08-03追記)