2005年5月31日火曜日
ハイドン&アイヴズ
古典派といえばハイドンとモーツァルト。モーツァルトのファンにはモーツァルトさえ聴ければいいという人もいるらしい。ハイドンにはそういうファンはいるのだろうか。
ハイドンというと、そつなくたくさんの曲を書いたというイメージがあるのかもしれない。だいたい交響曲だけでも104曲(+α)あるのだから。でもこのエステルハージの副楽長時代までの作品は実に創意溢れる楽しいものばかりだ。昔(全音の)ソナタ・アルバムなどでハイドンの名には親しんでいたが、作品としては、やはり交響曲や弦楽四重奏の方が面白いように思う。
しかしホグウッドのハイドン全集、入手していないのも大半なので、ぜひ再発売してほしい。ブルーノ・ヴァイル/ターフェルムジークの「疾風怒濤」期の交響曲もいいなあ(仏Sony Classical 5112142)。実験精神旺盛なんですよ、ハイドンは。
アイヴズは交響曲第3番をいくつか。案外オルフェウス室内管弦楽団が面白かった。コープランドの《アパラチアの春》の方は、やはりちょっと響きが厚めだったからなあ。あと、新しいシングルトン版の楽譜には「shadow」といって、前の版では書かれていなかった部分が自筆譜から起こされている。そしてラッセル・デイヴィス、シンクレア、オルフェウスのCDではこれが(いくつかだけだが)聴こえてくるから面白い。バーンスタインの時は古い楽譜だったのだろうか(演奏がちょっと怪しい箇所もいくつか)。
2005年5月26日木曜日
2冊の雑感
朝日新聞社会部編 『言論の不自由:朝日新聞「みる・きく・はなす」はいま--十年の記録』 怪書房、1998年。
日本には法律で規定されていないのに、それ以上に人を縛り付けるような「social pressure」が多い。私の友人も、常々このことを指摘していた。いわゆる「出る杭」の他にも少数意見(少数派)の強固なまでの排除もある。そういった行為が総じて全体主義につながりやすいというのは全くもってその通りではないかと思う。
もともと新聞の連載だったためか、事象の掘り下げにはやや物足りないところもあるが、反対に多くの事例から全体を通貫する問題が感じられるように思った。日常レベルで、無意識的になされていることを考えることになると思う。
土井健司 『キリスト教を問いなおす』 ちくま新書、2003年。
「平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか」という刺激的なタイトルが第1章。昨今のブッシュ政権とキリスト教会との強い結びつきを考えると、このような問いが信徒に向けられるのは避けられないことだろう。だが私はブッシュのやり方は大嫌いだし、アメリカのクリスチャンにだって戦争反対の意志を表明する人はいる。
個人的にはこの問いは「キリスト教」ではなく「キリスト教徒」に置き換えて考えるべき問題だと思う(土井さんも、このことに触れられてはいるようだ)。人間の愚かさを主との対話で知るのがクリスチャンであるはずだ。私だっていつ間違うか分からない。
ところで、相変わらずハワード・ジンはいいこと言うなあ、と思う→こちら(英語)を読んでみてください。まあ「アメリカはユニークで云々」の下りは、これがアメリカの大学の卒業式で話されていることだということを差し引いて考えるべきなんでしょうけど。
(2005.5.30.追記) 久しぶりにジンについて検索。C-SPANに1月の番組をアーカイヴしたものが残っていた(Howard Zinnで検索かけました)。ブッシュの再選のことから話が始まっていて、いきなり「うん、うん」とうなずいてしまった。フセインがみつかってもなぜイラクに米軍がいるのかっていう素朴な疑問にも感心。つまり民主化にも独裁政権にも、最初から関心がなかったのだと。石油に関する利権と中東における覇権主義だと。こういうことは日本では盛んに言われているけれど、アメリカのメディアでこういう発言がでるのはすごい。アメリカが(太平洋戦争の)戦前・戦中、帝国主義勢力に対して戦ったのは確かだが、そのアメリカ自体もずっと前から帝国主義を同じように行っていたと、愛国的で熱狂的に語る電話の視聴者に冷ややかに答えていたのもすごい。番組の方もいちど視聴者の話が終わると電話の音声をすみやかに切っているからうまくいくのだろうな。「あなたみたいな人は最も非アメリカ的だ」という電話に対しては何がアメリカ的なのかについての再考を促していた。
最後は通信衛星が自動的に切られて終わってしまったけれど (^_^;; その前に視聴者が「あんたは共産主義者か?」という問いを投げかけていたのは興味深い。そうすると、今のブッシュ政権のやり方に反対する、少なからぬ日本人(+アメリカ以外の国の人)はみな共産主義者となるだろう(ちなみにジン自身は共産主義者ではないが、民主社会主義のようなものは信ずるし、平和主義者であるというような返答をしていた)。
2005年5月25日水曜日
サイト更新
2005-05-18 17:03:05 アメリカ音楽関連のリンクの「クレストン関連」にサイトを追加。日本にはクレストン・ファンが多いようですね。
2005-05-11 22:34:40 アメリカのクラシック音楽のアイヴズ:第3交響曲のコーナーを書き始めました。気が向いた時に内容を追加していきます。●
2005-05-09 16:09:04 アメリカのクラシック音楽のパーシケッティのページ、クレストンのページにディスクを追加。
2005-05-05 11:24:21 アメリカのクラシック音楽のダニエル・レンツのページにディスクを追加。
2005年5月15日日曜日
Made in the U. S. A.
なるほどねえ。こういうサイトを読んでみると、最近急激に浮上してきた「普通の国(オリジナルは「normal nation」だったのか!)」だとか「憲法改正(改悪?)」だとかはすべてはイラン・イラク戦争以降のアメリカから始まったんだなあ。ネオコンは日本を「Britain of the Far East」にしたいのかあ。
アメリカの「内政干渉」は、実はどこぞの国々の教科書問題なんかよりもずっと本質的で根深そうだ。
2005年5月6日金曜日
滑川(なめりかわ)~魚津方面
久しぶりに音楽以外のネタ。
5月4日~5日は金太郎温泉に行ってきた。実家から1時間もしないうちについてしまうので、とても快適。後でいろいろ聞いた感じだと、数年前に新しい大浴場ができて、入浴だけの一般客も多いらしい。
大型連休中、旅館はどこも料金が割高で予約もほぼいっぱい。しかしなぜか金太郎温泉のホームページを見ると、一人1万円ちょっとの格安プラン、期間限定、一日の組数も限定というのに、まだ5月4日の分は残っていた。他の通常の格安プラン(特に制限はなさそう)はすべて満室なのに。
私がいった格安プランは夕食・朝食ともに大きな部屋で食べ、泊まる部屋に料理が運ばれてこないというもの。でもそれくらいどうってことないので、安いのはうれしい。料理が特別安く作ってあるという感じもなかった。
大きな旅館で、団体旅行でも使われているので有名な旅館。正直お部屋の方は慰安旅行向けといった趣だったが、やはりお風呂は楽しかった。夕食前などは一般の入浴客もかなり来ていたそうで、大変な混雑ぶりだったらしい。私はその時宿泊客のみ使用できる別の大浴場の方へ行ったので、かなり空いていた。それにしても硫黄の匂いが強かった。大昔に来た時はこんなはずじゃなかったのに、と思ったら、最近新しく違う温泉が出てきたという噂を聞いた。
話題の風呂の方は8時半頃?に視察。昔金太郎温泉というと、だだっぴろい風呂から大きな岩の数々を眺めて楽しむという感じだったけれど(むかし泳いだ記憶がある)、現在は浴槽そのものはちょっと小さくなり、その変わりジャグジーや打たせ湯や浴槽を歩く場所とか露天風呂とか、いろいろな風呂が楽しめるようになった。特に露天風呂は快適。周りの景色はお世辞にも素晴らしいとは言えないが、それでも楽しめた。
2階にはリラックス・ルームもあって、寝そべるように座れる椅子の耳元のスピーカーからは好みのテレビ音声をスイッチで選べるようになってきた。ちょうどプロ野球の問題をNHKでやっていたのでしばらく観ていた。プロ野球も地域密着型にしないといけないなあ。巨人中心じゃ面白くないしなあ。
売店にはおわらのビデオがあったので購入。駅の売店などではみかけないローカルなものだった。
金太郎温泉に行く前、ほたるいかミュージアムにも寄ってきた。様々な展示の他に、映画(正式には「イリュージョンシアター」)とホタルイカ発光ショー(「ライブシアター」)がある。映画の方はホタルイカの光がフィルムでは出にくいということなのか、電球を映像をシンクロさせる仕組みが面白かった。ただ内容的には他愛のないもので、電球を使ったアトラクションがなければ退屈していただろう(たくさん詰めかけていた子供たちは楽しめたのだろうか?)。
一方ホタルイカの発光ショー(「ライブシアター」)というのは面白かった。部屋を真っ暗にしてホタルイカの発光を実際に見るというもの。ほたるいかミュージアムの前、昼飯を食べた海老源の水槽にもホタルイカが放たれていて、網で優しく触ると発光する様子が見られますということだったが、ホタルイカたちはぐったりしていて、光ってくれなかった。海老源はホタルイカの造りが美味しかったということで満足。この時期、滑川に来たらホタルイカを食べないとね。あら~我ながら残酷。
この日はきっと、魚津では蜃気楼が見えたのかもしれない。残念ながら私は行かなかったけれど。富山県にいても、蜃気楼というのはなかなか見られないものだ。
2005年5月2日月曜日
アンドレス・セゴビア選集(1927-1939)、第1巻
ギターはコードを奏するには簡便な楽器と察するが、ポリフォニックな楽曲は難しいのではないだろうか。セゴビアのバッハ演奏では、特にどの声部やフレーズを引き立てれば立体的な音楽表現になるのかが非常に良く考えられていて、そのダイナミックな表現にも共感する。一つ一つの指を使って声部を相対する強弱で際立て、弾く瞬間からすぐ消えてしまうギターのか細い音から持続する旋律線やフレーズを聴かせるのは並大抵ではないはずだ。
《アルハンブラの想い出》も極上の美しさ。そしてひっそりと隠れた美しいフレーズの数々にもスポットライトを当てている。しかしこの作品に「トレモロのエチュード」という副題が付いていたのは知らなかった。
2005年5月1日日曜日
宇宙の音楽(ムジカ)が聴こえる
こころの時代~宗教・人生 「宇宙の音楽(ムジカ)が聴こえる」 皆川達夫 NHK教育放送
昨年の音楽学会でも研究成果を披露されていた皆川達夫さんが自らの生涯を語られている番組。音楽に対する熱き想いが伝わった。
ジョセフ・カーマンの本から推測すると、彼が留学した時代というのは、おそらく今よりもずっと音楽学における記譜法の重要性は高かったと思う。現在でもその伝統は受け継がれており、20世紀アメリカ音楽を研究する私でも、中世やルネサンス音楽の記譜法は一通り勉強した(中世・ルネサンス各1セメスター)。皆川さんの時代は、まだ教科書もなかった頃だったのだろうか。しかし反対に、授業でドライにアイディアを学んだのではなく、実例から多くを学ばれたと思われるので、それはある意味うらやましいということになるかもしれない。
現在はスタンダードな記譜法の本が2冊あるので記譜法は体系的に学べるが、毎週毎週新しい課題をこなして通り過ぎていくという感じで、音楽というよりはパズル解きのような感覚になっていたことも否定できない。ただ実際に「翻訳」してみることは大事で、例えば理論だけで説明できない、音符や歌詞の書き(写し)間違い、インクのしみなどを判断するのは、現代の印刷譜以上に問題となってくる(おそらく五線譜によるマニュスクリプトにも存在する問題だろう)。
この「翻訳」作業、グレゴリオ聖歌のネウマ譜はまだそれほど難しくない。しかし定量記譜法に入ってくると大変。「今すぐやってみろ」と言われたら、どのくらいできるか、ちょっと心配でもある。記譜法というのは音楽学の授業の中でももっともハードなものの一つだった(語学のハンデが低くなるという利点はあるが、アメリカ人にとっても大変な授業なのである)。
現在は主要なマニュスクリプトはファクシミリになっているので、基本的なリサーチは大学図書館でも可能だろう。ただ学術研究の最先端に立つには、やはりオリジナルを見る必要が出てくるだろうと思う。もっとも現在もマイクロフィルムで取り寄せることは行われているし、私のいた大学の先生は、しきりにデジタル化を提案していた。家にいながらマニュスクリプトの詳細がデジタル・データとして見られるようになると、かなりこの分野の研究は楽になるだろう。
皆川さんはかつて『音楽芸術』に記譜法の歴史について連載されていたが(国立音大で複写したものがここにもいくつかある)、記譜法の歴史の本を書きたいとどこかでおっしゃっておられた。日本人の手による記譜法の歴史の本があると、確かに基礎研究の分野では大きなツールになると思う。
彼の指揮する合唱団の演奏の一端を聴いたのも初めて。私のいた大学でやっていたヴォーカル・アンサンブルはもっと近年の演奏習慣研究に則したものであったが、日本におけるパイオニア的活動であることは変わりない。
そうそう、音符の書いていない文字ばかりのマニュスクリプトで思い出したのが、カルミナ・ブラーナ。そのほとんどには楽譜が残っていないか、残っていたとしても、歌詞の上にハネ印や点が書かれている簡素なもの。結局このマニュスクリプトだけでは分からず、他の聖歌の楽譜をいくつか探すことになった。私も大学図書館で奮闘していたのを思い出す。ラテン語の基礎も勉強したなあ。懐かしい。