2005年2月26日土曜日

アニメ・サントラ2つ

ビアンカの大冒険:ゴールデン・イーグルを救え Walt Disney Records (Canada) DIS607597

ブルース・ブロートンのスコアは映画を観た後に聴くとビンビン耳に入ってくる。素晴らしい! もちろん細かい部分はダイアローグや画面なしには分からない(エンド・タイトルはそれだけでも充分完結しており、実際の映画でもクレジットを観ながら楽しめる)。それでも音域が次第に上昇するマラフーテのテーマは何度聴いても飽きない(あるいは飽きないように構成されているというべきか)。民族楽器を多用したオーケストレーション(ただしデジリドゥはサントラにはない)、ビートだけでなくて音色も豊かな打楽器は楽しい。歌がないので「ディズニーといえば歌」という人向けではないが、サントラ愛好者は満足する音源だと思う。なお『ビアンカの大冒険』 (1977) から3つの歌が収録されている。もともとはこちらの映画のみのサントラも製作したかったそうだが、権利の関係でうまくいかなかったらしい。

サンベリーナ・おやゆび姫 米SBK Records 8 29126 2

おそらく絵の方はクラシック・ディズニーの雰囲気で迫ったのだろう(微妙な陰影よりもストレートな部分が多いようにも思えるけれど)。しかし音楽の方はもっとブロードウェイ色の濃い「ニューディズニー」の路線のように聴こえる。 "Let Me Be Your Wings" の冒頭の動機は、あるオペラのアリアと似て

2005年2月24日木曜日

細かい問題

Dartmouth Collegeの先生から突然の問い合わせ。なんでも私がラジオ放送について研究していることを知ったそうで、ものすごく特定された質問だった。ウィリアム・シューマンの第2交響曲がラジオ初演された時、一緒に放送された演目は何か、である。

CBSはこの当時のラジオ番組に関しては、会社の功績としてまとめたものと思われるブックレットがあり、当時の主要なクラシック音楽の番組についてはリストアップがされている。当然アメリカの作曲家を紹介した番組も紹介されており、ウィリアム・シューマンの第2交響曲が『Everybody's Music』というニューヨーク・フィルのオフシーズンに放送された番組で、ハワード・バーロー指揮CBS交響楽団によって放送初演されたことが分かる(ちなみにバーローはThe Voice of Firestoneにもよく登場していたようだ)。

ところがこのブックレットにはシューマン作品の放送初演時の他に何が演奏されたかまでは書いてなかった。実は他にも作品が演奏されていたことも考えていなかったのだ! よくよく考えてみれば、放送枠は1時間でもシューマンの交響曲だけで1時間というのはあり得ない。

結局この初演日は分かったので、これを頼りに『ニューヨークタイムズ』の番組表を調べるということで解決。正解はベートーヴェンの第2交響曲。「2番つながり」だったようです。

2005年2月23日水曜日

おやゆび姫 サンベリーナ

ワーナー・ホームビデオ DL-24000

ドン・ブルース監督による1994年の長編アニメを観る。

『サンベリーナ』の音楽、特に歌(バリー・マニロウ作曲)の占める割合は、おそらくディズニーのどの作品よりも多いだろう。映画は冒頭と最後の恋愛ストーリーの間に様々な登場人物とエピソードを挿入したような形になっているようで、その多彩さから、様々なスタイルの音楽が混在している。

本国アメリカにおける映画の評判は、かなり分かれているようだ。批判的な意見だと、登場人物が物語中にどう成長していくかが分かりにくいということや、ブルース監督がサンベリーナに託しているはずの「自分で決断する女性像」というのがうまくいっておらず、アンデルセンの伝統的女性観をくつがえすに至っていないということ、あるいはスタイルが70年代のディズニーであり、90年代のディズニーはもっと先を行っているというものだった。「子供向けには面白い作品だろうが、一緒に行く大人は退屈するかもしれない」という評も少なくなかった(もちろん「ディズニーより面白い」という人もいる)。

また、この映画は日本語で観た方が面白いように思う。歌の部分など、明らかに口の形が違っているが、サンベリーナは、ずっと古典的なヒロインになっているし(それはブルース監督の思惑とは逆なのかもしれないが)、脇役のセンスもいい。またヒスパニックやフレンチ・アクセントといった、オリジナルではやや耳障りな要素(民族的ステレオタイプの使用)が薄れているように思われた。

2005年2月20日日曜日

ディズニー・アニメあれこれ

『ホーム・オン・ザ・レンジ』  (2004)

ディズニーによる2Dアニメの最後と公表されている作品が日本ではついに劇場上映されずDirect-to-Videoとして発売された。登場人物・物語は西部劇をひとひねりしたということだそうだけれど、音楽はハリウッド西部劇のサウンドをしっかり踏襲。一部にヨーデルが入り、バラードも美しい。アラン・メンケンの才能が光る。

メンケンの才能を疑うわけではないが、やはり『リトル・マーメイド』、『美女と野獣』と続くと、やや作風が予測できてしまうので飽きてしまうところがある。『ホーム・オン・レンジ』の場合、作風が違っているのでリフレッシングだったと思う。

インターネット上のレビューでは「大笑いするほどではないが面白い」、「すぐに忘れられるような作品」という厳しい意見も見られる。しかし一夜のエンターテイメントとして観れば、それほど悪い作品ではないと思う。2004年最大の名作というと、そもそもこの映画がそういうものを目指していないように思えてしまう。カートゥーン風の画は面白い。

『ビアンカの冒険~ゴールデン・イーグルを救え』 (1990)

歌が1曲もないフォーマットは『コルドロン』以来か。しかしアンダースコアはとても効果的であるし、画的には美しくスケール感がある。作品としての仕上がりもなかなかで、もっと評価されていい作品だと思う。邦題は何とかならないものか…。今度はサントラもじっくり聴いてみたい。

『南部の歌』 (1946)

実写とアニメの合成。登場する黒人が召し使いとして幸せそうに白人に遣えるという描写が問題だとしてDVD化もされていない不幸な歴史を持った名作。南北戦争以降が物語の設定となっているので、いわゆる奴隷制は(少なくとも形の上では)存在していないし、たとえ当時の黒人の置かれている状況がこの映画と違い、はるかに酷いということがあったとしても、この映画の価値は揺るがないように思う。

というのも、一度みただけでも感じられるのは、むしろ子どものような純粋な心を持てば人種や身分の分け隔てなく人生の素晴らしさを謳歌することができるということだからだ (SaveDisney.comには、もっと優れた論考がある)。反対に人種の認識とそれに付随する差別というのは大人になる過程で身に付き、主人公の母親のようになってしまうのだろうか、と思われてしまうのである。そして、白人で大人になった人々のいくらか(ここでは母親がその一人だとして)が、かつてリーマスおじさんに対してとったように黒人に接していたのではないか、そういった過去に向かい合えないアメリカ人が、この映画を封印しているのではないかということである。もちろん真意は分からないが、もしもそうだとしたら、とても残念なことだと思うし、そうでないことを願っている。

なお私が観た日本盤LDでは、音楽の冒頭部分が数秒欠けているようだ(サントラでこの部分は確認できる)。また日本語で「南部の歌」というタイトルが英語のタイトルの出る場面で出される。これは残念ながら消すことはできないようだ。またフィスク・ジュビリー・シンガーズが歌う黒人霊歌スタイルで書かれた合唱ナンバーも2つあるようだ(その他の部分では黒人音楽の要素を直接感ずることはなかったように思う)。アニメの部分・実写の部分、それぞれに別の作曲家が担当しているが、明確に感じられるような作風の違いはない。

なお『南部の歌』に関しては、こちらを参照していただきたい。

その他、ドン・ブルース監督の『ニムの秘密』 (United Artists)の冒頭部分をもう一度。一回目の時はこの部分に集中できなかったけれど、話の深さが分かると面白い。アメリカにはとてもコアなファンがいるようだ。

追記(2005.3.3.)
『南部の歌』スペシャル・エディションDVDが 2006年、アメリカで発売されるという情報があるそうです。未確認ながら。こちらをご参照あれ。

2005年2月17日木曜日

The Disney Version

Richard Schickelによるディズニー史/伝記をナナメヨミ。ディズニー社の傘下で書かれなかったディズニー本として評価が高いもののようだ。ビジネスのことにはあまり注意を払って読んでいないのだが、例えばウォルトの「革新」「実験」は『白雪姫』で一段落し、その後、急速に型が確立し、新鮮さを失っていく、柔軟性を失っていくといった認識は、確かにこれまで読んできた好意的な本には書かれていなかったように思う(日本では森卓也などは、こういった考え方に共感しているのかもしれないな。彼の『アニメーション入門』を眺めた感じ)。またマルチプレーン・カメラの威力というのが一般の聴衆には分かりにくいということ、それは「エンジニア」としての功績であること、更にはウォルトの考えていたハイ・カルチャーとはどういうものだったのかということにも触れてあって面白い(『ファンタジア』にディームズ・テイラーを迎えた意味など)。もうちょっといろいろ調べてみないといけないな。

Schickelの書いていること、すべてに賛同する訳でもないけれど、こういった批判的な眼を持ち続けることは必要だと思う。

2005年2月6日日曜日

富山シティ・フィルのマーラー5番

富山シティフィルハーモニー管弦楽団 第23回定期演奏会 2月6日(日)富山市・オーバード・ホール、午後2時開演
吉田裕史指揮

ヨハン・シュトラウス2世 喜歌劇《こうもり》序曲
マーラー 交響曲第5番嬰ハ短調

団員の吉田さんからご招待に預かり、久しぶりにシティ・フィルを聴く。おそらく高校の時以来だから、もう20年近く行ってないことになるのだろうか。やはりマーラー、しかも1番以外というのは、もうそれだけで興味を持ってしまう。私のようなオーケストラ音楽の愛好家はやはりマーラーやブルックナー(できれば4番以外)やショスタコーヴィチ(5番以外)を聴きたいものなのである。

技術的な問題は確かにあるけれど(アマオケによる同曲は東京で聴いた新交響楽団についで2度目)、それはある程度シティ・フィルは克服しているようなので、私の方もとやかく考えずに聴いたところがある。案外そういった問題だけでなく、例えば古典派の作品のように、ピアノで容易に声部の動きが分かるような作品でないところに、こういうマーラーの難しさがるのだということが分かり、そういう点が今回の収穫だったかもしれない。

マーラーはオーケストラの楽器法を熟知していたのだろう。特殊奏法の使い方だけでなく、思わぬ楽器の組み合わせを同時進行させるように思う。安易に「弦楽器群」「管楽器群」といった分け方だけでなく、これらの複数の群から一つずつとりだして一つの声部、もう一つずつ取り出して二つ目の声部といったことがかなり行われているように思う。指揮者の力量も問われるし(明確なキュー出しだけでなく、無理のない音楽作りということも含めて、今回の指揮者は素晴らしかった。Bravo!)、演奏家の方も、自分が演奏する個々のフレーズが、特定の部分で、あるいは曲全体の中でどんな役割を担っているのかが分かりにくいこともあるように思う(互いの音が聞こえにくいホールならば、この問題は顕著になる)。また旋律も断片だけとか、アタックなどで色彩効果を狙っているとか、いちいち細かい。マーラーは楽譜をピアノからではなくて、楽器の音とともに考えていたと言っていた大学の先生がいたけれど、その通りかもしれない。

第3楽章ではホルンを指揮者そばに立たせていた(ホルンもBravo!)。サイモン・ラトルもこれを行っており、あるいは近年の「演奏習慣研究」による初演当時の演奏法重視の流れに乗ったものなのかもしれない。これで面白いのは、視覚的に「オブリガート・ホルン」のパートが具体的に明らかになることと、これを音響的に際立てることの意味を考えられたことだろうか。客席からみて左側の反響版に跳ね返る独奏ホルンの響きが、その他のパートと対比され、またデイル・クレヴェンジャーのように顔を真っ赤にして強奏ソロ部分を演奏しなくても、それなりに聴けるということが分かったように思う。

バランス的にはティンパニーがすごく大きく、弦楽器はやや引っ込みがちだったけれど、ティンパニーの音が大きいのは独特の効果としても面白いのだろうか(という気もする)。

帰り道でフィルハーモニア版のスコアを持っている人を見かけた。やっぱりみんな、好きなんですねえ。私はまだ全音版しか持ってないんですが…。次はぜひ9番でも…。

ところでコンサート・オープナーはヨハン・シュトラウス2世の《こうもり》序曲。アンサンブルの技術的な問題がこんなに出る曲だとは思わなかった。マーラーよりも酷だったかも。

ついでに来月の《カルメン》のチケットも購入。もう5階席しかないのか…。大した人気である

メモ:オーバード・ホールに関する不満など

(1)「インフォメーション」というのは何のためにあるのだろう? ホールには何度も行ったが、いまだによく分からないコーナーである。公演に関するグッズ発売でもすればいいのに。せっかくならチケット販売もすればいいのに???

(2)そのチケット販売のブースがどうしてエスカレーター付近にないのだろう? アスネットカウンターの存在を知っている人はいいけれど、そうでない人にはやや不親切に思われるのだが(あのカウンター周辺は、機能的にホールから切り離した方がいいと思う。残したいのなら残すで、やはりエスカレーター付近か出口付近にあった方がいいと思う)。人の流れがそっちに行くから。

(3)駅北駐車場にもっと行きやすくならないのだろうか? いちいち階段を降りて道路を渡らなくてもいいような通路があればいいのに。

ところでオーバード・ホールの業務を民間に委託する動きがあるという噂も聞いたのだが、本当なのだろうか? 赤字続きだとも聞いている…。

フォスター本

藤野幸雄著 夢見る人 作曲家フォスターの一生 勉誠出版 2005年 172ページ

マリエ富山5階の清明堂にて購入。日本語によるフォスターの本というのは、子供向けの一冊を除けば、これが2冊目ではないだろうか。1冊目は音楽之友社から発行されていた津川圭一著『フォスターの生涯』である。昭和26年、音楽文庫43番(富山市民プラザ近くの古本屋で購入)。

ぱっと見た感じ藤野氏の著作には譜例が出てこないようであるし、タイトルから察するに、伝記中心の記述ではないかと思われる。しかしジョン・タスカー・ハワードがスタンダードな伝記であること、あるいはその他米国で出版されたフォスター関連本について紹介もされているので、おそらく資料的にも確かなものになっているのだろう(まだ読んでいないので、何とも言えないが)。

2005年2月3日木曜日

アメリカ実験音楽は民族音楽だった

副題:9人の魂の冒険者たち 柿沼敏江著 フィルムアート社、2005年

先週の土曜日、著者の柿沼さんから新著が届く。扱われている作曲家はカール・ラグルス、パーシー・グレンジャー、ヘンリー・カウエル、シルベストレ・レブエルタス、ルース・クロフォード・シーガー、ハリー・パーチ、ポール・ボウルス、ジョン・ケージ、ルー・ハリソン。この中ではカウエルがなんといってもうれしい。実験音楽の父のように言われながら、本国でも最近まではあまり大きく扱われなかったように思われるからだ。作曲家の選び方が、ご留学時に受けた様々な音楽的刺激を象徴しているようでもある。ピーター・ガーランドの名前が出て「なるほど!」と思った。彼の本にも『In Search of Silvestre Revueltas』というのがあったっけ。

自分がこれまで関心を持ってきた分野でもあるし、「世界音楽」からの視点というのも興味深い。まだパラパラとページをめくっただけだけれど、これから少しずつ内容を消化していこうと思う。

Web-critiqueワレリー・ゲルギエフ指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 富山公演のレビューを掲載。

2005年2月2日水曜日

いろいろ届く

Leonard MaltinのOf Mice and Magicが届く。アメリカのカートゥーン史のスタンダードとして知られているそうだ。というか、見た感じ(本のサイズ、体裁、文体)が、いかにも大学で使われてそうな(学部生向きの)教科書という雰囲気である。

MaltinといえばDisney Filmsの方を感心しながらメモを取っている。読み物としては、こちらの方が面白い(評論っぽい感じもこちらが強い)。今日届いた方は実写映画が入ってないのと、ディズニー以外のアメリカのカートゥーンも幅広く扱っているところが違うということか。この改訂版は1987年出版なので、アップデートもして欲しいなあ。

でも私が留学時に良く見ていたLooney TunesRoad Runnerなどについても書いてある。なつかしい。小さなミスとしては、ミッキー第3作(公開第1作)である『蒸気船ウィリー』の音楽担当がCarl Stallingと書いてあるのが残念。初期は情報が錯綜しているそうだけれど。

マルチプレーン・カメラが長編で初めて使われたのは『ピノキオ』だとどこかのサイトに書いてあったが、最近入手した『白雪姫』の本では、城の場面で初めて使ったと書いてあるようだし…。

『南部の歌』のOSTも届く。イエロー・レーベルの方だ。