2010年3月16日火曜日

現状打破を考えたい、今の私

久しぶりにNPRのPerformance Todayを聴いている。タラハシーにいた時は、この番組がライブ音源を流してくれる、貴重で数少ない機会だった。そんなことを考えると、日本は、こんな地方でもNHKのおかげで、毎日どこかの演奏会の収録を放送していることに感想せざるを得ない。と同時に、アメリカの地方の、クラシック音楽受容の貧しさに、改めて驚嘆するばかりだ。

一方で、現在いる場所の方が、いまいったように、とても恵まれているはずなのに、クラシックに没頭しにくいのはなぜだろう。もちろん自分がアカデミアにいないことや、母国語だけの世界で安住して緊張感がないこともあるのだろう。でも、それだけではなく、集中しにくい何かがあるような気がしてならない。あるいは恵まれていて、いろんなものがあふれているため、何か一つのことに集中できないということなのかもしれない。

よくよく考えて、現状を改善したいものだ。

2010年3月12日金曜日

アナログを語る会2010年3月

今日は南砺市にて、アナログを語る会に出席している。場所はフランス料理店、ラモヴェールの別館。中山会長が持ち込んだ真空管アンプと、部屋に備えられたタンノイのスピーカーで、レコード鑑賞を楽しんでいる。

アナログを語る会は、音楽愛好家の自由の集まりだ。会員各自が持つLPレコードを、ジャンルを問わず聴くものである。今月でアナログを語る会は109回目。もう10年になろうとしている。参加者は南砺市福光を中心に、私を含め、富山市からも参加している。

持ち込まれるレコードのジャンルに規制はない。ただ1、2年前からはテーマを毎回設定するようにしており、今回は「春の花」。1時間ほどはテーマにもとづいたレコードを聴き、その他の時間では、聴きたいもの・聴いてもらいたいものをプレーヤーに乗せる。

参加する人は、30代から70代まで、職業も様々。リアルタイムにアナログ・レコードを体験した人もいれば、CD世代の人もいる。蓄音機を家に何台も集める人がいれば、オーディオ・マニアもいる。

聴き方も自由。かしこまったところはなく、静かに聴けと強要する人もおらず、時にはにぎやかに雑談に花を咲かすこともある。

会場にあったレコードをかいつまんでみると、以下の通り。

・Lars Gullin Quartet VLS-1604-E (Metronome Redords [テイチク])
・スーパー・ギター・トリオ・ライブ アル・ディ・メオラ、パコ・ルシア、ジョン・マクラフリン CBSソニー  25AP2035
・ブラジル音楽の故郷〜北東部とバイーアの音楽 フィリップス FD-7134〜36 から
・カール・ミュンヒンガー 《四季》より<春>、カール・ミュンヒンガー ショトゥットガルト室内管弦楽団
・Dave Brubeck in Berlin CBS Sony SOPM 182
・ブレイズン・ブラス ハリウッドへ行く ヘンリー・ジェローム楽団 編曲 ディック・ジェイカブス  DeccaJDL-5051 Brazen Brass Goes Hollywood Henry Jerome and his orchestra
・Robert Stolz Meinen Freunden zur Erinnerung.  RCA VL 30377
・オリジナル盤による川田正子・孝子 不滅の童謡アルバム コロムビア EDM25~26
・カーメン・キャバレロ 日本の詩情 スーパー・デラックス ビクター音楽産業 MCA-10004
・ホリデイ・イン・ジャパン リカルド・サントスとミリオン・ストリングス 日本グラモフォン LPPM-3
・君は薔薇より美しい 布施明 キング GR-280
・ワシントン広場の夜は更けて ロイヤル・ポップス・オーケストラ 東芝 TP 7100 2曲目 私のベイビー 多くの人が思い出していた。公民館で歌を楽しんでいた時代とも。
・日本の郷愁 シー・バレンツ・オーケストラ キャニオン C20R0045 Sea Barents Orchestra

そのほかステレオ・デモンストレーション・レコードの話もあった。 

2010年3月5日金曜日

クセナキスから、開かれた耳へ?

 今では数多くのディスクで親しめるクセナキス作品ではあるが、おそらくCD2枚組に収められた音源がLPで発売されたときは、現代音楽界に大きな影響を与えたのではないだろうか。
 クセナキス作品を聴く上で、いわゆる「クラシック」の音感覚が邪魔になることは間違いないのではないか。音群を語っているということ自体、一定時間に空間に放たれる音高と、複数であればそれらの組み合わせの「美しさ」に感覚をとぎすます
 コントロールの行き届いた《アトレ》グリッサンドや、突然のクラリネットのロングトーンが、一つの境目となり、次のセクションに入ったような気になる。
 シモノヴィッチは初演者。トランペットやトロンボーンのぶりっとした鳴り方、弦楽器のトレモロ、音色によって、かなり性格が変わるし、楽器のアタックというのも交錯している。
 クラリネットのロングトーンが一つの節目になっているのは確か。ロングトーンがこれ以降増えている。打楽器が入ってこない。性的な展開、音色がものをいうように。トロンボーンのフラッターが印象的。それで沈黙。
 音を重ねるようになってくる? グラデーション的な変化。少しずつエネルギーを増し、グリッサンドも戻ってくる。がっちりとした音の構築を感じさせる作品であり、アーティキュレーションも、発音も明瞭だ。

2曲目は1曲目とちがって、静寂やなめらかさが際だっている。このなめらかさに、聴きいってしまうところがある。

《ヘルマ》…高橋悠治の噛みつき襲いかかる感覚にどうしてもぐいと引かれてしまう。

《ポラ・ティ》…は他の作品に比べ、ドラマ的要素に富んでいる。打楽器の打ち込むようなリズムと、淡々と同音で歌う少年合唱が、突き放したような、それだからこそ持つ、冷めたような、それでいて力強い訴えを持っている。

クセナキスによって開発された統計学的なプログラムをつかって作られたIBM7090による計算を、ここで録音しているシモノヴィチによって1962年に行われたパリ・IBMインスタレーションでリアライズされた。

統計学・数学は、もちろんクセナキスの作品理解の一助になるのだろうけれど、とりあえず虚心に耳を傾けて、音の蠢きを体感せねば、それらも無意味であろう。彼がギリシャで過ごした経験が、少なからずとも自叙伝として彼の音響に反映していることは、おそらく間違いないのだから。

 クセナキスの評価は、おそらくこのCDに収録された音源がLPレコードで発売されたころとは、また違っているのかもしれない。
 クセナキス作品を聴く上で、いわゆる「クラシック」の音感覚が邪魔になることは間違いないのではないか。音群を語っているということ自体、一定時間に空間に放たれる音高と、複数であればそれらの組み合わせの「美しさ」に感覚をとぎすます行為は、与えられた美意識に身を預けてしまうことにもなりかねず、作品をもって新しい美意識を覚醒しうる可能性を、自ら閉じてしまうことになりはしないだろうか。
 もちろん僕自身の中に、19世紀までに培われた音の「美しさ」なるものを肯定する気持ちはあるが、それはそのまま、新しい聴き方・新しい表現を否定することにもなるまい。いずれにせよ、耳を開くことは、「映画音楽のような」と揶揄される、クラシック愛好家に受ける作品に対しても行われるべきではないかという主張も、これまた当てはまる。
 となると、ジョン・ケージが嫌いなベートーヴェンやミューザックも、好き嫌いはともかく、存在を否定することはできなくなってしまうのだろうか。