ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106《ハンマークラヴィーア》 ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)伊Decca 433 882-2(モノラル全集Box)
ふわっとした感触。リズムも、それを「刻み」という言葉に還元すると、不安定にさえ思えてくる。以前ルドルフ・ゼルキンで同ソナタを聴いた時にも、「ピアニストにおけるテクニックとは何か」と自問することがあった。その頃は作品表現のために必要なテクニックがあれば、そのテクニックは充分であるという認識であった。
超絶技巧の作品ではおのずと求められるものが違ってくるはずだ。「テクニックが難しいことを感じさせない演奏こそ上手な演奏」ということが金言とされるけれど、技術を見せびらかす作品では「難しく聴かせる」テクニックも必要なのではないかと思われる。ホロヴィッツなどは、ものすごく技巧が鮮やかに聴こえるが、手の部分を見ると(手の大きさやあの尋常でない指さばきを除けば)、いとも楽々と超絶技巧作品を弾いてみせる。
技巧は楽であっても作品が超絶技巧の場合、つまり技巧についての不安はまるっきりないにしても、その余裕をもって作品の超絶技巧さをアピールする表現が必要であるということであろうか。
話がそれてしまった。バックハウスのベートーヴェンは、コントラストを極端に演出しない。そのようなものはベートーヴェンの音楽表現において、それほどのウエイトを占めていないという認識なのであろうか。「バックハウスは楽譜通り弾くだけだ」という文言も見かけたことがあるが、少なくとも《ハンマークラヴィーア》の第1楽章では、冒頭はアレグロというより速いアンダンテであるし(ベートーヴェンのメトロノーム指示通りに弾くことができるか、それが適切であるかという議論は別として)、第2楽章の付点の付け方も必ずしも一貫していない印象を持った。
しかし少ないコントラストの中で、剛直なタッチをもって表情をつけるという音楽は一貫しているように思われるし、《熱情》ソナタのフィナーレには、彼なりの結論を出しているように思う。やはり作品の求める質に対するテクニックということなのだろうか。
ニコラ・バクリ 室内楽作品集 仏Triton TRI 2001/2
ショスタコーヴィチからシェルシまで、幅広い影響を自己の音楽に認めるフランスの若手作曲家。先日のアンサンブル金沢で彼の作品を聴いたのを契機に購入。一聴した感じ、シェルシの影はほとんどなく、強い叙情性を残した現代風な作風だ。一つの楽章内がいくつかの部分に分かれ、それぞれは違ったテンポやテクスチュアで明確にされている。また、じっくりとフレーズが練り上げられて盛り上がってくる楽想も好んで使っているようだ。
他にはTahraレーベルからリリースされたフルトヴェングラーのコレクションで、『In Memoriam』という4枚組CD+CD-ROMから、ベートーヴェンの《エグモント》序曲を聴く。解説書にはトスカニーニとフルトヴェングラーが対比して述べられている。フルトヴェングラーは常に霧の中にさまよい、拍節もあやふやだという。
しかし、この《エグモント》序曲を聴く限り、そこには確固としたベートーヴェン解釈があるし、迷いは感じられない。確かにテンポの揺れはあるが、アンサンブルに乱れはない。断固としたテンポの揺れではないかと思った。映像を見ると、確かにブレのある指揮では打点が分からないだろうけれど、「あやふや」な拍節感であるのかどうかまでは判断できなかった。
おそらくトスカニーニの、断固として揺れないようなテンポ感というものとは違うという意味で、相対的には分からないこともない。