ディズニー・アニメの本を書いているとき、一応関連として、日本のアニメ、特に東映動画の映像やサントラを調べていたことがある。いくつか見たけれど、例えば『長靴をはいた猫』にしても、「挿入歌」の扱いは、ディズニー・ソングとは違うということ。それはもちろん、「挿入歌」という言葉自体が、すでにディズニー的じゃないっていうことというか。やはりセリフ劇で進めていく部分と歌の部分が、割としっかり分離しているということだと思う。また、いわゆる「ミッキーマウシング」が、それほど採用されているということではないことだろうと思う。
菊地成孔さんなんかは、このミッキーマウシングを、悪い音付けの見本のように考えていたようであるけれど、ミッキーマウシング自体は、MGMでも、トムとジェリーでも続いていた訳だし、一つのコミカルなスタイルとして確立していると考えた方がいいのだと思う。
日本のアニメで難しいのは、例えば音楽監督、音監の存在じゃないかと思う。テレビ・アニメの場合は、使い回しのBGMが基本だから、それをどの場面にどう使うかの判断が音監に大きく委ねられている。映画にしても、例えばいま思い出すのは『機動戦士ガンダム II 哀・戦士編』なんかの《哀戦士》のスポッティングは、音監がやったものだときく。富野由悠季氏がエンディング・ロールに持っていったら、えらい評判が悪かったらしい。
ただこれに関しては、オリジナルを知っているからこそ、ということなのかもしれないし、僕自身、富野氏が改定時の戦闘シーンにどんな音を要求したのかを知らないので、何ともいえないなかったりするものの、戦闘シーンに《哀戦士》が出ることの効果はあったに違いない (僕自身は、実はあんまり興味がない歌だったので、それほど強い感慨はないのだが。そもそもこの劇場版自体が、いわゆる総集編なので、そんなに興味がなかった)。
東映動画は「東洋のディズニー」を目指していたらしいのだけれど、音楽のつけ方に関しては、けっこう違っているという印象を持っている。ディズニーに近いということであれば、ウォルト・ディズニーの晩年から没後の作品が、特に『眠りの森の美女』以降が、次第にミュージカル色を失っていき、どちらかというと、東映動画っぽくなっていったように思えてしまう。もちろんこれは歴史的な検証ではなくて、たんなる印象論ではあるけれど。『きつねと猟犬』は、特にクライマックスのスコアリングが、通常の映画と変わらないアクション・シーンであり、歌もかなり「挿入歌」に近くなっている。ミッキーマウシングは大きく後退してしまっていたように思う。
『リトル・マーメイド』がディズニー復活と思われるようになったのも、それ以前のディズニー・ソングが「挿入歌」になっていたことの証左のように思える。それは「ディズニー・アニメを観ている人でさえ、もうすでにディズニーのフォーマットに飽きていたんじゃないか」ということをスタッフが感じ取っていたからではないかと、僕は思う。
ところで、ハワード・アシュマンとアラン・メンケンという、ミュージカル畑の人間を連れてきたというのは、ディズニー社にとっては、一つの賭けだったんじゃないかと思うときがある。シャーマン兄弟は別格として、ディズニーがミュージカルのプロダクションに直接関わってた作曲家を連れてきたっていうのは、アシュマン=メンケンの前にはなかったんじゃないだろうか。ソング・ライターとスコア・コンポーザーという組み合わせは長くあったとは思うのだけれど。『白雪姫』のころは、考えてみれば、まだブロードウェイというよりは、オペレッタ (ヴィクター・ハーバートとかジェローム・カーンとか) の時代なんだよね。
2011年7月28日木曜日
2011年7月23日土曜日
『ぴあ』について考えてみようと思う
『ぴあ』が休刊になったと聞いたのだけれども、実は僕はこの雑誌にそれほどお世話になった記憶がないんだねえ。『音友』もそうだけど、富山とか新潟にいると、「ああ、大都市ではそういうコンサートやってるんだねえ。いいなー」と羨望の眼差しを向けることはあっても、大半が自分とは無関係のものだと思っていた。
東京には2年住んでいたので、さて『ぴあ』でも、と買ってみたけれど、僕の、当時の興味の対象がものすごく限定されていたため、どちらかというと、毎日配達されていた『朝日新聞』の夕刊が、一番情報源としては重宝していたという印象がある。とくに国立劇場や歌舞伎座で行われている日本の伝統音楽の公演の情報は良かったと思う。
この頃、絵画や映画、ポピュラー系のものにもっともっと目を見開いていれば、さぞかし大学院の2年も楽しかっただろうなあと思う。まあ学芸大の音楽学は東川先生、足立先生で、どちらも授業はまったく(劣等生の)僕の役には立たなかった。せめて学会というものを紹介してもらっていれば別だったのかもしれないが。
絵画を本格的に観たのは、初めての海外旅行で観た MoMA ならびに メトロポリタン美術館が最初だったと思うし、映画やポピュラー系については、アメリカに行ってから。われながら視野の狭さに驚くものだけれど (増田聡氏なんかは僕のサイトを見て「芸大的な量見の狭さ」だなんて紹介してたね)、まあこれも、それは事実だから仕方ないのだけれども。
話が自分語りになってしまったけど、ようするに『ぴあ』というと、僕の妹の方がメイン・カルチャーに興味を持っていたのか、時々買ってたようだけど、結局お世話にならずじまいだったように思う。唯一の例外は別冊の音楽ホールガイド。座席表まで網羅してあって、まだサントリーホールやらオーチャードやら、芸術劇場が新鮮な雰囲気を持っていたような気がする。これはいまでも書庫に保存してある。図書館を網羅を網羅した別冊も持ってたと思う。類書は他にもあったし、ホールガイドほどインパクトはなかったが、これもどこかに保管してあるはずだ。
東京には2年住んでいたので、さて『ぴあ』でも、と買ってみたけれど、僕の、当時の興味の対象がものすごく限定されていたため、どちらかというと、毎日配達されていた『朝日新聞』の夕刊が、一番情報源としては重宝していたという印象がある。とくに国立劇場や歌舞伎座で行われている日本の伝統音楽の公演の情報は良かったと思う。
この頃、絵画や映画、ポピュラー系のものにもっともっと目を見開いていれば、さぞかし大学院の2年も楽しかっただろうなあと思う。まあ学芸大の音楽学は東川先生、足立先生で、どちらも授業はまったく(劣等生の)僕の役には立たなかった。せめて学会というものを紹介してもらっていれば別だったのかもしれないが。
絵画を本格的に観たのは、初めての海外旅行で観た MoMA ならびに メトロポリタン美術館が最初だったと思うし、映画やポピュラー系については、アメリカに行ってから。われながら視野の狭さに驚くものだけれど (増田聡氏なんかは僕のサイトを見て「芸大的な量見の狭さ」だなんて紹介してたね)、まあこれも、それは事実だから仕方ないのだけれども。
話が自分語りになってしまったけど、ようするに『ぴあ』というと、僕の妹の方がメイン・カルチャーに興味を持っていたのか、時々買ってたようだけど、結局お世話にならずじまいだったように思う。唯一の例外は別冊の音楽ホールガイド。座席表まで網羅してあって、まだサントリーホールやらオーチャードやら、芸術劇場が新鮮な雰囲気を持っていたような気がする。これはいまでも書庫に保存してある。図書館を網羅を網羅した別冊も持ってたと思う。類書は他にもあったし、ホールガイドほどインパクトはなかったが、これもどこかに保管してあるはずだ。
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