2007年12月26日水曜日
英『グラモフォン』誌、付録CDを聴いてみる
・"The 'Real' Great Composers--Paganini: Hilary Hahn and Rob Cowan in Conversation," Gramophone November 2006.
「楽譜に書かれていることと自分がこう弾きたいと感じたことが違った時、どうするか」という質問に、ヒラリー・ハーンは「確かに自分の弾きたいと感ずることはあるとは思うが、楽譜に書かれていることの可能性も残しておいた方がいい。練習室で最初に曲をさらった時には分からないことがあり、全体が見えてくると納得できることが楽譜に見つかる時もあるからだ。しかし最終的にそれでも自分が感じたことと違う場合は、自分の感情を自然に伝えることが大切なので、そちらを選ぶ」と答えた。この段階になると「一聴衆の立場として」作品を捉えられることになるのだと。
楽譜のエディションについては、「もともとパガニーニは、自分の商売上の秘訣ということもあって、楽譜に肝心なことを残さなかったという。あるいは楽譜がそれまで行なってきたことの集約である可能性もある。だから『原典版』などというのも、どこまでそうなのか分からないところがある」という趣旨のことを話していた。知的な話をする演奏家ですねえ。俄然興味が湧いてきましたよ。
2007年12月20日木曜日
聴取と「鑑賞」
音楽教育専門の某先生と電話で長話。むかし日本が音楽教育のやりかたをアメリカから入れた際、Listeningという領域は、最初そのまま「聴取」と訳されていたのだという。ところがどうもこの言葉のすわりが悪いということで、のちに「鑑賞」とされたのだそうだ。この時代がいつだったかきちんと聞いておけば良かったと後悔しているのだが、いずれにせよ、Listeningが「鑑賞」となったことが、今日学校の音楽教育における聴取教育に教養主義が持ち込まれる契機になったと、この先生は考えていた。
本来は、こういうListeningというのは、音楽を作り上げる音程や音色、形式や様式など、具体的な要素を耳で感じ取るためにあるのだと思う。つまり「名曲だから知っておく」というスタンスではなく、様々な音楽に触れる時に、どういったところを聴くのか、ということを知る活動だ。言葉を覚えてコミュニケーションするように、音楽の「言語」を学び、それをどう使うのか。その活動の一環として聴取活動があるべきだということなのだ。
ただ、こういった聴取活動が「鑑賞」の時間で行なわれるべきだという認識を持っている先生は、中等教育でも、高等教育機関でも、ほとんどいないのではないだろうか。
バーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」、ウィントン・マルサリスの "Marsalis On Music"、ショルティの "Orchestra!" なんていうのは、いずれも教養主義的な「鑑賞」ではなく (もちろんそれが皆無だとは言わないが) 、音楽を構成する要素を耳と一緒に学習する過程が重要になっていると思う。
2007年12月19日水曜日
レコード芸術2008年1月号
『レコード芸術』1月号、海外盤試聴記に3つのCDを取り上げました。
(1) ヒューバート・クライン・ヘッドリー:生誕100周年録音集 [カリフォルニア組曲、ピアノ協奏曲第1番《アルゼンチン・タンゴ》、同第2番、ラジオのための交響曲第1番]
(2) アイヴズ:吹奏楽作品集 [《アメリカ》による変奏曲、序曲と行進曲《1776》、彼らはここに!、吹奏楽のための組曲《古き家族の日》、インターカレッジ行進曲、フーガハ調、行進曲《オメガ・ラムダ・カイ》、オールコット家の人々、他]
(3) ジョン・ケージ:《ソング・ブック》~声のためのソロ58 (18の微分音ラーガ)
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(1) (2) は、「交響/管弦/協奏」セクション、252ページです。 (3) は「オペラ/声楽曲」のセクション、265ページにあります。
2007年12月17日月曜日
音楽評「OEK第231回定期公演」を書きました。
11月にピヒラーさんが振った演奏会のレビューを書きました。私がプレトークをさせていただいた回で、村治佳織さんがロドリーゴの《アランフェス協奏曲》をお弾きになった公演です。きょうの『北國新聞』に掲載されていると伺っております。どうぞよろしくお願いいたします。
2007年12月12日水曜日
JASPM 2007 覚え書き
2007年12月8日・9日
名古屋大学
名古屋に行ったのは3度目。いずれも学会で、2回は発表をしている。今回はオーディエンスとして。8日の昼から始まるということで、朝7時40分のしらさぎで、富山から。
11時10分頃、名古屋に到着し、そのままホテルに荷物を預ける。モスバーガーで昼飯を食らって、そのまま名古屋大学入り。時間的にはちょうどいい感じだった。
この日はシンポジウムのみ。「ビッグバンド」を振り返る内容で、最初に細川周平氏の概略があった。一般的なものなのだけれど、それなりに内容が振り返られて面白かった。パラマウント映画のものらしい (と本人に伺った) ポール・ホワイトマンの映像があるのは知らなかった。懇親会ではホワイトマンの分厚い研究書らしきものが出たと耳打ちさせていただいた。
ただ、この日のハイライトは、キング・レコードでスーパー・ダイナミック・サウンドと名付けられた一連のシリーズの企画に携わったプロデューサー、高和元彦氏の話だったかもしれない。東京キューバン・ボーイズや原信夫とシャープス・アンド・フラッツを派手なアレンジで演奏させ、一世を風靡したLPのシリーズだったようだ。
会場のスピーカーの性能のためなのか、音が割れていたのが残念。でも、そのパワフルなサウンドには、「古き良き時代」を感じた。予算について質疑応答の時に尋ねてみたら、通常の5割増しくらいだったとか。わざわざ大編成のためにアレンジを作り (アレンジャーのアイディアが枯渇しないように1枚のアルバムに3人くらいアレンジャーを起用したとのこと) 、スタジオではなく音楽ホールを2日、場合によっては3日も借り、納得がいくまでマイク・セッティングをしたのだとか。
ステレオ装置が格段に普及しつつあった時代背景もあり、「スーパー・ダイナミック・サウンド」は、飛ぶように売れたそうで、かけた予算相応のペイがあったとのこと。
のちには東京キューバン・ボーイズや原信夫とシャープス・アンド・フラッツを共演させた「ビッグ・バンド・スコープ」というのも4枚作られたそうだ。このLPの企画に労音が注目し、2つのバンドは全国をツアーしたという。それぞれのバンドに単独でコンサートをさせる仕事がまったくなくなるほど、この2バンドのツアーは話題を呼んだのだとか。
映画音楽のアレンジとかも聴かせてもらったけど、アレンジの派手さ、録音のシャープさというのは、たとえそれが「生演奏」とはかけ離れているにせよ、とてもコンセプトとして面白い。
高和氏に言わせると、マルチ・マイクというのは、やたらめったらするものではないという。例えば1つの楽器に1つ、あるいはドラムセットなら1つの太鼓ごとに一つなどというのは、特に後者など、行き過ぎなのだという。サキソフォンなら4本で1つというのが常だったらしい。最近のミュージシャンは、自分の前にマイクがないと不安がるというが、それはおかしいのだとか。
なにが「リアル」な音かというのは、人によって様々で、私など、ワン・ポイントで録音されたものなんか、「このもやっとした感じがリアルだー」と感じたりすることがあるのだが、レコード愛好家の中には、「いかにもワンポイントらしい」と気に入らない趣きの人もいる。
もちろん私はそれを否定したいというのではなく、「Hi-Fi」というのが一体全体どういう音なのか、理想の音というのは、人によって、本当に様々なのだと思うのである。
2日目では、学校教材としてポピュラー音楽を授業でやって統計を取った報告が面白かった (加藤徹也氏)。アンケートの中には、歌の時間が削られて残念だったとか、音楽に理論は必要なのか、とか、批判的な内容もあったが、大半は、自分の知らない音楽に出会えたことや、何気なく聴いているポピュラー音楽について、詳しく学んだことに好意的な反応を覚えるものだった。
実際に授業で配布されたプリントが発表資料になっていた。これが非常に面白い。率直にいうと「こういうのを大学でやるべきだなあ」ということである。参考に挙げられていた本のいくつかを、さっそくアマゾンに注文。音源も図書館で探してみようと思う。
午後は放送メディアと音楽についてのワークショップ。フリー・トーキングということなので、私もいくつか発言させていただいた。「大学の先生と大学院生のゼミ」的な雰囲気もあったけれど、放送局の人や、コンサートを主催している人などからも意見があり、幅広い意見で盛り上がったと思う。どちらかというと、問題提起の場所だったので、「こういうことも考えてみたらどうか」という問いが出たのがよかったと思う。ぶっちゃけ、研究ネタがひらめくことにもつながるかもしれないのだし。
1日目に行なわれた懇親会では、数人の方と名刺交換 。東北大で、私の師匠でもある足立先生の門下生という人に出会い、2日目、名古屋を出発するまで行動をともにした。北陸から来た人が、私の知る範囲では2人しかいなかったので (しかもほとんど話せなかった) 、彼と話をするのはとても楽しかった。修士論文、うまくいくといいですね。