2008年12月23日火曜日

映画『風とライオン』

音楽=ジェリー・ゴールドスミス。アラブもの映画音楽というと、『アラビアのロレンス』のを担当した、モーリス・ジャールが確立したステレオタイプなハリウッド・アラブ系音楽の呪縛というものはあるんじゃないかと思ったりもする。でも、ゴールドスミスくらいの大御所ならば、それもない、というのはひいき目過ぎるだろうか。打楽器がリードするという点では、確かにジャールの『アラビアのロセンス』が一つの規範だろう。ただ、甘美でノスタルジックな旋律はここには見出せない。そういう要素は、ジャール時代のハリウッド全体に要求された、いわゆる一般の人が漠然と「映画音楽」という言葉から想像するスタイルの一つだったんだろう。一方のゴールドスミスの旋律にノスタルジーはなく、ヒロイズムがある。

米軍の歩兵隊が宮殿を占拠しようという場面。行進や隊列の合図としてドラムが使われている。そして宮殿平定時には米国海兵隊の公式マーチ《忠誠》が使われていて、このスーザの行進曲がとても好きな私は、アラブ人たちの殺戮場面の後に《忠誠》が流れるという一連のシーンは、ひどく心が傷む。ところでこの《忠誠》という曲を、あの映画の設定で使うのは、時代考証的に正しいのだろうか? あるいはそれよりも、《忠誠》という曲が持つ象徴、ドラマ的な意味合いの方が、時代考証よりも優先されるということなのだろうか?

この場面の音楽の使い方というのは、いかにも征服者の音楽という感じがして、実に心地が悪い。そういう感情を引き起こす意図が、あそこにはあったのだろうか? あるいは国際感覚に欠けたヤンキーの一部が自分たちを「誇り」に思うことを見越しているのだろうか?

一方ショーン・コネリー率いる一団が「神への歌」を歌う場面があるが、たしかイスラムでは音楽と宗教は切り離すというのが常識となっていると思う。別に僕はゴールドスミスをくさそうとは思わないし、むしろ彼の音楽があったゆえに、あの映画が引き立っていると強く思うのだけれども、やはり多少民族音楽学をかじったが故に、イスラム社会と音楽との関係が気になってしまうのである。コネリーがアラーに祈りを捧げる場面がないのは、彼自身がイスラム教徒でないのであれば当然なのかもしれないけれど、それでは衣装以外に、彼のアラブ人としてのアイデンディティは、どう示されているのだろうか? これもまた気になるところである。

ところで『風とライオン』には2枚組のサントラ盤も出ている。スコアが映画にでた順番にすべて1枚のCDに収められ、かつてLPで出ていた時の形式による編集が2枚目に収められている。この2枚目には、軍楽隊の太鼓、スーザの《忠誠》の一部など、ソース・ミュージックも収録されている。

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