2007年12月20日木曜日

聴取と「鑑賞」

音楽教育専門の某先生と電話で長話。むかし日本が音楽教育のやりかたをアメリカから入れた際、Listeningという領域は、最初そのまま「聴取」と訳されていたのだという。ところがどうもこの言葉のすわりが悪いということで、のちに「鑑賞」とされたのだそうだ。この時代がいつだったかきちんと聞いておけば良かったと後悔しているのだが、いずれにせよ、Listeningが「鑑賞」となったことが、今日学校の音楽教育における聴取教育に教養主義が持ち込まれる契機になったと、この先生は考えていた。

本来は、こういうListeningというのは、音楽を作り上げる音程や音色、形式や様式など、具体的な要素を耳で感じ取るためにあるのだと思う。つまり「名曲だから知っておく」というスタンスではなく、様々な音楽に触れる時に、どういったところを聴くのか、ということを知る活動だ。言葉を覚えてコミュニケーションするように、音楽の「言語」を学び、それをどう使うのか。その活動の一環として聴取活動があるべきだということなのだ。

ただ、こういった聴取活動が「鑑賞」の時間で行なわれるべきだという認識を持っている先生は、中等教育でも、高等教育機関でも、ほとんどいないのではないだろうか。

バーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」、ウィントン・マルサリスの "Marsalis On Music"、ショルティの "Orchestra!" なんていうのは、いずれも教養主義的な「鑑賞」ではなく (もちろんそれが皆無だとは言わないが) 、音楽を構成する要素を耳と一緒に学習する過程が重要になっていると思う。

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