2011年7月28日木曜日

思いつくままの書き出し

ディズニー・アニメの本を書いているとき、一応関連として、日本のアニメ、特に東映動画の映像やサントラを調べていたことがある。いくつか見たけれど、例えば『長靴をはいた猫』にしても、「挿入歌」の扱いは、ディズニー・ソングとは違うということ。それはもちろん、「挿入歌」という言葉自体が、すでにディズニー的じゃないっていうことというか。やはりセリフ劇で進めていく部分と歌の部分が、割としっかり分離しているということだと思う。また、いわゆる「ミッキーマウシング」が、それほど採用されているということではないことだろうと思う。

菊地成孔さんなんかは、このミッキーマウシングを、悪い音付けの見本のように考えていたようであるけれど、ミッキーマウシング自体は、MGMでも、トムとジェリーでも続いていた訳だし、一つのコミカルなスタイルとして確立していると考えた方がいいのだと思う。

日本のアニメで難しいのは、例えば音楽監督、音監の存在じゃないかと思う。テレビ・アニメの場合は、使い回しのBGMが基本だから、それをどの場面にどう使うかの判断が音監に大きく委ねられている。映画にしても、例えばいま思い出すのは『機動戦士ガンダム II 哀・戦士編』なんかの《哀戦士》のスポッティングは、音監がやったものだときく。富野由悠季氏がエンディング・ロールに持っていったら、えらい評判が悪かったらしい。

ただこれに関しては、オリジナルを知っているからこそ、ということなのかもしれないし、僕自身、富野氏が改定時の戦闘シーンにどんな音を要求したのかを知らないので、何ともいえないなかったりするものの、戦闘シーンに《哀戦士》が出ることの効果はあったに違いない (僕自身は、実はあんまり興味がない歌だったので、それほど強い感慨はないのだが。そもそもこの劇場版自体が、いわゆる総集編なので、そんなに興味がなかった)。

東映動画は「東洋のディズニー」を目指していたらしいのだけれど、音楽のつけ方に関しては、けっこう違っているという印象を持っている。ディズニーに近いということであれば、ウォルト・ディズニーの晩年から没後の作品が、特に『眠りの森の美女』以降が、次第にミュージカル色を失っていき、どちらかというと、東映動画っぽくなっていったように思えてしまう。もちろんこれは歴史的な検証ではなくて、たんなる印象論ではあるけれど。『きつねと猟犬』は、特にクライマックスのスコアリングが、通常の映画と変わらないアクション・シーンであり、歌もかなり「挿入歌」に近くなっている。ミッキーマウシングは大きく後退してしまっていたように思う。

『リトル・マーメイド』がディズニー復活と思われるようになったのも、それ以前のディズニー・ソングが「挿入歌」になっていたことの証左のように思える。それは「ディズニー・アニメを観ている人でさえ、もうすでにディズニーのフォーマットに飽きていたんじゃないか」ということをスタッフが感じ取っていたからではないかと、僕は思う。

ところで、ハワード・アシュマンとアラン・メンケンという、ミュージカル畑の人間を連れてきたというのは、ディズニー社にとっては、一つの賭けだったんじゃないかと思うときがある。シャーマン兄弟は別格として、ディズニーがミュージカルのプロダクションに直接関わってた作曲家を連れてきたっていうのは、アシュマン=メンケンの前にはなかったんじゃないだろうか。ソング・ライターとスコア・コンポーザーという組み合わせは長くあったとは思うのだけれど。『白雪姫』のころは、考えてみれば、まだブロードウェイというよりは、オペレッタ (ヴィクター・ハーバートとかジェローム・カーンとか) の時代なんだよね。

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